朝潮太郎(あさしお たろう)

「胸毛の横綱」とか、「や印の横綱」とかいわれていました。5回の優勝の内の4回を大阪場所で飾っているように大阪に強く、「大阪太郎」ともいわれていました。こんなに異名が多かったところから、人気の程も知れようと思います。身体つきなんかは今の武蔵丸を思わせますね。でも安定感は武蔵丸の方がずっと上ですね。朝潮は強いときと弱いときの差が激しく、「強い朝潮と弱い朝潮と二人いる」なんていわれていました。ですから出羽錦が一方的に負けたあと支度部屋で「今日は強いほうの朝潮とあたっちゃった」なんていったりもしたものでした。

相撲振りは高砂部屋伝統の突き押しを主体としたものでした。自分の相撲を取ったときは「この人は負けることがあるのだろうか」、と思わせるくらい強かったですね。その割に優勝回数が少ないのは安定感がいまひとつだったこと、栃錦・若乃花の時代と大鵬・柏戸の時代にはさまれていたことと脊椎分離症のせいでしょうね。特に脊椎分離症は朝潮の力士生命を大きく左右しましたね。この病気が出なかったならば、優勝ももっとしたでしょうし、大鵬の時代もずっと遅れたかもしれませんね。たしか新横綱の場所を全休しているはずですし、それ以後も休場がちでした。そんなことから「や印の横綱」なんて言われるようになってしまったわけです。

もっとも勝負師としては、あまり向いていなかったかもしれませんね。朝潮の写真を見るとわかるのですが、目つきがいつもやさしいのです。栃錦なんかも日常は穏やかな目つきでしたが、土俵に上がると殺気が漂うくらいの目つきに変貌しましたからね。あ、若乃花はいつでも恐くて、そばによりにくい感じでしたっけ(今も変わらないか)。こんな性格のやさしさが、もてるものを十分に伸ばしきれなかったことにもつながるかもしれませんね。

朝潮は入門に当たってドラマチックな話があります。それは朝潮が入門した当時、奄美大島はアメリカの占領下でした(彼自身は徳之島出身です)。そのため日本に渡航(!)するには手続きが必要でした。そんなことから朝潮は密航をして神戸に到着し、それから高砂部屋に入門しています。そのため、奄美大島が日本に返還されるまでは出身地を神戸にしていました。その後、奄美大島の日本への返還運動がおきると朝潮もこれに協力していました。力士は政財界の実力者と意外に接近した付き合いをしているので、その線からの協力だったようです。相撲と郷土との強い結び付きを思わせる話ですね。

朝潮の土俵で今もよくおぼえているのは、若ノ海との対戦で掛け投げを打たれて、片足で土俵上を動き回った姿です。なかなか負けないのもさすがですが、結局負けてしまいました。でも対戦相手の若ノ海が小さかったこともありますが、朝潮は大きいなぁと感心したものでした。

朝潮は子供のファンも多くて少年週刊紙の表紙になったりもしました。もうひとつ、映画にも出演しています。「日本誕生」という映画で、古事記を映画化したものでした。例の天の岩戸から天照大神を引きだす手力雄命という役でした。これも大分話題になったようです。なんかぴったりの役という感じですね。このころは若乃花が自分の伝記映画に出演したり結構映画に出る力士がいました。あ、そういえば栃光がレコードを出しています、というか出演(?)しています。定かではないのですが、歌の相の手を入れているだけだと思います。何か、この頃も相撲ブームだったんですね(1950年代です)。

引退後の朝潮は一時高砂部屋から独立しましたが、結局高砂部屋に戻り師匠の死後高砂親方となりました。親方としては前の山、高見山、富士桜なんていう力士を育てています。あ、朝潮がいましたっけ。先代と似たような感じの(むらのある相撲ブリが)・・・。


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