千代の富士貢(ちよのふじ みつぐ)

「小さな大横綱」といわれ、長い間第一人者として君臨しましたね。最後のころは相撲界の代表として、活躍していました。31回の優勝は、大鵬につぐ記録です。優勝回数からいえば、大鵬と並ぶ人なのですが、その他の点ではあまりこの二人は似ていません。

大鵬は入門した時から将来は横綱になると期待されていた人ですが、千代の富士はそういう事はありませんでした。体付きからいっても小さい方に入りますから、横綱になると予想した人はあまりなかったでしょう。

千代の富士は千代の山と同郷という事もあって九重部屋への入門が決まったのですが、おとうさんが小柄な事を大変心配していました。たまたま大相撲の巡業があったので早速出かけて、貴ノ花に会いました。そして「力士になってやって行けるか」という事を相談しました。貴ノ花は千代の富士を見て、「いい目つきをしている。心がけ次第で出世ができる」といい、そばにあったおかしの箱のふたに「がんばれ」と書いて千代の富士(当時は秋元少年)に手渡したそうです。この励ましで入門を決意したという事です。おとうさんはこの箱を大事にしていました。そして、現在では千代の富士の資料館に収められていて、見る事ができるそうです。

このように入門に当って不安のあった千代の富士ですが、入門してからはもっと厄介なものにとり付かれてしまいました。それは肩の脱臼でした。千代の富士が本格的に上昇を始めるのは、これを克服してからの事でした。

肩の脱臼は左右両方の肩におこりました。あるいはもともとおこりやすい体質だったのかもしれませんが、その当時の相撲ぶりも原因がありそうでした。下のころの千代の富士の相撲は、とにかく相手を投げるというやや乱暴な取り口でした。後に「ウルフ・スペシャル」と呼ばれる左の上手投げを得意にして、これを主体とした相撲だったわけです。ところがこの取り口が脱臼の原因ともなっている事に気付いた九重親方(元北の富士)が前に出る事を主体とした相撲にするように助言し、それが身についてから千代の富士の活躍が始まったわけです。

度重なる脱臼を克服するために、取り口だけでなく身体の改造にもとりくみました。それは肩の回りに筋肉をつけて、その筋肉の力で脱臼を防ぐようにしたらという医師の助言に基づいて、上半身の強化にはげみました。その結果見事な肩の筋肉が付いて来ました。この筋肉のおかげで脱臼の心配がなくなったのと、前回しをとって出る相撲が取れるようになった千代の富士は、「突然」と言いたいほど急に強くなり、番付もそれに従って上昇して行きました。

横綱昇進の年は、確か昇進披露を2回やっています。最初は大関昇進披露、次は横綱昇進披露です。このころの千代の富士は、大変な人気力士でした。上昇し始めた時に、貴ノ花が引退し、バトンを受けるようにして人気力士の座に就いたわけです。テレビのコマーシャルにもよく出ていました。しかし、このころの人気力士としての千代の富士が後年の様に第一人者として君臨するようになるとは、あまり思われませんでした。そしてこの事は千代の富士自身もそう思っていたかもしれません。

千代の富士の横綱としてのデビューはあまりいいものではありませんでした。昇進そうそう休場するはめになったからです。休場あけの場所で横綱として初優勝した千代の富士は、涙を浮かべていました。これはやっと優勝できた事、横綱としてやって行ける自信が付いた事、そんな事が一緒になったものと思います。このころの千代の富士は、あれほど優勝回数を重ねるようになるとは考えてもいなかったといえます。

千代の富士の横綱昇進で、九重部屋には部屋としての勢いが付き、幕内力士が多くなって行きます。その中でも最大の「事件」は保志(北勝海)の横綱昇進でしょう。一つの部屋に同時に横綱が二人いるというのは、あまりない事で、立浪部屋の双葉山、羽黒山、出羽海部屋の栃木山、大錦という位しかないと思います。それを実現してしまい、更には千代の富士と北勝海とで優勝決定戦をしてしまったのですから、このころの九重部屋の充実ぶりがわかります。

千代の富士の偉いところは相撲をとるだけでなく、力士の頂点に立つ人間だという自覚があった事です。これは海外での公演の時に大いに発揮されました。公演の最後のあいさつは常に千代の富士で、しかも立派にそれをつとめていました。横綱がどういう者であるのか、きちんと理解していたといえます。

さて、土俵上の千代の富士ですが、いくつかの幸運がありました。その中で最大のものはライバルとなる力士が存在しなかった事です。横綱昇進当時に毎場所優勝決定の一番を取っていた隆の里はすぐに引退してしまいました。最大のライバルになるかと思われた北尾は、廃業してしまいました。もうひとり、ライバルとなるはずだった大乃國は横綱になってからは十分な体調を保てなくなってしまいました。さらに元気な横綱の北勝海は同じ部屋なので対戦がありませんでした。

こういう有利な状況をしっかり自分のものにして、ほとんど一人横綱として圧倒的な存在を示していました。このころは確かに「千代の富士時代」でした。こういう風に存在感を示す力士は、そうはいないと思います。千代の富士の存在がいかに大きかったかは、別の事によってもわかります。千代の富士の現役当時四人いた横綱は、彼の引退と共に次々と姿を消し、一年後には横綱がいなくなってしまったのです。60年ぶりといっていい横綱不在をまねいたという事は、千代の富士の存在がいかに大きかったかを示しています。

相撲協会は、千代の富士の功績に対して、一代年寄「千代の富士」を贈る事を決定したのですが、九重親方と千代の富士はこれを辞退してしまいました。理由としては、九重親方と千代の富士とがそれぞれ持っている年寄株を交代して、千代の富士が九重親方になる事に決めていた、ということでした。これは一代年寄では部屋の継承が難しい、という事があったと思います。論議を呼んだ決定でしたが、なんとなく納得させるものもありました。

もう一つ大きな事がありました。それは千代の富士に国民栄誉賞が贈られた事です。30回以上の優勝と、50以上の連勝に対して贈られたものですが、相撲界では最初の快挙でした。

そういえば千代の富士は大鵬の二つの記録に挑んだ横綱でした。一つは優勝回数、もう一つは連勝記録でした。このうち優勝回数は及びませんでしたが、連勝は記録を破りました。大鵬の連勝記録を破った日が、たまたま大鵬が解説をしている日で、アナウンサーに感想を聞かれた大鵬が「嬉しいですよ、それは嬉しいですよ」といいながら、なぜか不機嫌だったのを思い出します。あの言い方は全然嬉しくない、という口調でしたからね。そして突然の引退によって、大鵬の優勝回数に並ぶことはなく終った訳です。

引退後は一時陣幕親方となりましたが、すぐに九重親方となり、部屋の経営に当たりました。現在は審判委員として、前九重親方の陣幕親方と同時に土俵下に座ることになりました。こんな例は珍しいですね。今後親方としてどういう活躍をするのか、興味がもたれますね。


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