大麒麟将能(だいきりん たかよし)

最終的には大関になっているのですが、持っているものに比べると、今一つ伸びきれなかったような感じがあります。ちょっと損をしたということでしょうか。ま、それもやむを得ないでしょうね。なにしろあの大鵬が兄弟子だったのですからね。そんなことが影響していたのでしょうね。

私が気になったのは、この人が大関になった後でも横綱土俵入りの太刀持ちを続けていたことです。普通はこういうことは平幕力士がすることですから、極めて珍しいことですね。もちろん、してはいけないなんて決りはないのですが、大関という地位の重みを考えると「そんなことまでしなくても」と思ってしまうわけです。この人にはこの人なりの考えがあったはずですから、それはそれでいいのですけれどね。

そういえばこの人は佐賀県出身で、師匠と同郷でした。そのせいか師匠と同じく読書好きで、相撲界ではインテリ(?)で通っていました。ですから現在でもゲストで解説をするとなかなか明解な話し方をしますね。こんな点から「頭のいい人なんだな」と思わせます。ところでこの人のことを「精神面が素質を食っている」と評した人がいます。だれあろう、先代の二子山なんです。ま、一門だということでこんなことを言ったのでしょうが、半面じれったがっていたのも事実ですね。大関になる前は「大関になったらすぐ横綱になる。自信をつけたらこういう人は手が付けられなくなる」といつも言っていました。それが大関になってもあんまり変わらなかったので、ついにそういう気になってしまった、と言うところでしょうね。事実相撲ぶりからいって、横綱になる可能性を感じさせる人でした。

柏戸を相手によく見せていた相撲が、この人の得意だと思います。立ち会いにズブリと二本差して、そのまま持っていく取り口をみていると本当に惚れぼれしました。もう一つの特技がうっちゃりでした。相手が勢いよく出てくるのに調子をあわせて下がりながらのうっちゃりは鮮やかなものでした。出足があって、しかもうっちゃりも得意という人は余りいないのですが、この人はその珍しい一人です。下半身がどっしりしていて、安定感のある人でした。「豆腐のようだ」と表現した人がいます(確か鏡山親方です)。ちょっとわかりにくい言い方ですが、これはきっと上半身にいくら力を加えても下半身に吸収されてしまって、さっぱり手ごたえがないという意味なのだと思います。相撲という競技から見ると、本当に素質に恵まれた人といえます。

惜しむらくは勝負師としてはあまり向いていない性格なのではないかと思われる点です。下のころから場所が近づくと下痢をしたり、負け越すと押し入れに入っていつまでも泣いていたりと、ちょっと感情の起伏がありますね。大関になってからも、「進行の都合で仕切り時間を伸び縮みさせられるとペースが狂ってしまうので、4分の仕切り制限時間を厳守してもらいたい」と言っていたそうです。結局、回りの事を気にし過ぎてもう一つ伸びなかったのではないか、そんな気もします。何回かあった優勝のチャンスを逃し、ついに優勝する事はありませんでしたが、もし優勝できたとしたら多分1回のみでは終らなかったはずです。

大麒麟の引退は、ある面で言えば突然でした。それはまだ十分に大関力士としてやって行けるのにもかかわらず引退してしまったからです。実はこれには理由があったのです。大騏麟としては師匠の二所ノ関親方に「部屋を譲りたいから引退してくれ」というような事を言われたと思い、部屋のためにまだ取れるのに引退したわけなのです。ですから引退後の大騏麟(この時点では押尾川親方ですね)は自分では次の二所ノ関親方のつもりでいました。ところが師匠の死後、弟弟子の金剛が親方になってしまいました。ここであの「二所ノ関騒動」がおこるわけです。この時押尾川親方は青葉城・天龍の二人の幕内力士を連れて二所ノ関部屋を出ました。結局は青葉城の移籍しか認められず、天龍は暫くして廃業してしまいました。ま、それはともかくもやっとの事で独立を認められて、晴れて押尾川部屋を経営して行く事になりました。早すぎた引退がやっと実った、といったところでしょう。その後も小部屋ながらコンスタントに幕内力士を出しているので、弟子の養成に関して才能を発揮しているようですね。

現在は相撲協会の委員として、指導普及部に属し、決まり手係を務めてもいます。勝負の終った後に場内で決まり手を発表していますね。あれを決定する仕事をしているわけです。この担当になる人は相撲に詳しくて、技をよく知っていなければなりません。そんな点からすると、まさにこの人に適任ですね。この決まり手は相撲協会の公式記録として残るので、めったな事はできないのです。地味ですけと、重要な役割ですね。


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