房錦勝比古(ふさにしき かつひこ)

「褐色の弾丸」というニックネームがありました。よくできたニックネームで、浅黒い肌の色と、立合から真一文字に突っ込んで行く相撲ぶりとがよく表現されていました。もっとも「弾丸」としては二代目になるようです。初代は高島親方となった巴潟でした。この巴潟も押し相撲で、立合から一気に押し込んで行く人だったので、小兵であった事もあいまって「弾丸」と言われていたわけです。おそらく巴潟の相撲ぶりを思わせるところがあったので、こういうニックネームが付いたのでしょうね。

相撲ぶりは真っ向から押すだけ、他の事は一切しませんでした。それで関脇まで昇進し、三賞も受賞しているわけですから、いかに自分の相撲に徹し切ったかがよく解ります。

相撲ぶりが爽やかな事とハンサムだったことがあいまって、この当時の人気力士の一人でした。それと養父が行司だったので、土俵上で養父から勝ち名乗を受けたりして、そんな面でも話題になった人でした。

実力のある人でしたが、相撲ぶりから言っても大関になる、と言うタイプではなく幕内上位で力を発揮する、横綱や大関にとって厄介な人、という存在でした。そしてこういう人がいてこそ、横綱、大関の相撲がおもしろくなるわけですから、そういう面でも貴重な人でした。

晩年は十両に落ち、何とか幕内回復をと努力したのですが、結局それもなりませんでした。この点はかつての活躍を知るものにとっては残念な事でした。それでも最後まで懸命に相撲を取っていた姿は、衰えたとはいえ、房錦にふさわしいと思います。

引退後は山響から若松を襲名して、師匠の部屋を継承しました。師匠の婿養子に入っていたので、順調な継承でした。その後は審判委員をつとめたりしていましたが、病気のために廃業してしまいました。


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