羽黒山礎丞(はぐろやま そじょう)

羽黒山としては二代目になります。この四股名よりも安念山の方が長かったし、親しみを感じますね。でも、四股名としては結構いいかげんな気もしますね。本名の「安念」にただ「山」をつけただけなんですから。まるで序二段か三段目の力士のような四股名ですね。

っと、羽黒山ですね。とにかく実力者でした。新小結で優勝したりして、すぐにも大関だと言われたものでした。体付きがまた実に良く、バランスの取れた体格でした。ですから大関にならなかったのが不思議なくらいなんですが、結局は「大関候補」で終ってしまいました。原因としては、一つにはその相撲ぶりがあると思います。得意としていたのが、強靭な足腰を生かした土俵際での突き落とし、網打ちといった技でした。どちらも追い込まれてからの技なので、この辺に羽黒山の消極性が見えるような気がします。大関になった人と言うのは、やっぱり自分から攻め込んでいたように思います。そのあたりが災いしていたのではないでしょうか。

もう一つ羽黒山で残念だったのは、対大鵬戦での全敗と言う事です。確か20回以上対戦しているのですが、一度も勝てませんでした。正直な所、20何回対戦して一度も勝てないほど実力に開きがあるとも思えませんね。何しろ羽黒山は関脇の常連だった訳ですから。これはあるいは実力の問題ではなくて、精神的なものかもしれませんね。この辺りに羽黒山のちょっと気弱な部分が覗いているような気がしてなりません。それに何回対戦しても一度も勝てない横綱がいるようでは、大関昇進というのはよほどのことがない限り無理でしょうからね。

ところでこの当時「立浪四天王」とよく言われていました。若羽黒、時津山、北の洋、安念山(羽黒山)の四人でした。そのうち大関には若羽黒がなり、残る三人は関脇まで昇進しています。更には北の洋を除く三人が優勝をしている、という具合に本当に粒がそろっていました。この四人の内、ライバル関係にあったのは実は若羽黒と安念山でした。年も同じぐらい、実力も拮抗していました。二人が目指していたのは大関の地位と、親方令嬢でした。面白いのは、二人がそれを分けあった、と言う事ですね。大関は若羽黒が、親方令嬢は安念山が、と言う具合です。・・・でこれは当然部屋の後継者争いに安念山が勝った、という事になります。若羽黒の焼けくそみたいな行き方は、あるいはここに原因があったかもしれません。

部屋の後継者に決まった安念山は、四股名を羽黒山としました。内外への宣言ですね。でもこの改名に反対する声もあったようです。ま、イメージが違う、と言う事なんですが、先代羽黒山の現役時代を知っている人にとっては、二代目はもの足りない部分があったのでしょうね。私もなんか全盛期を過ぎての改名のような気がして、よせばいいのになと思ったものでした。ですからこの人は安念山の方が印象が強くて、羽黒山の時代はあまり記憶に残ってないんですね。

引退後は予定どおり、立浪部屋を継承しました。大関の旭國を始め多くの幕内力士を育てました。やっと横綱を育てたのですが、不祥事を起して勝手に廃業してしまいました。あの双羽黒(北尾)ですね。この事件の時、親方としての姿勢を随分批判されたのは記憶に新しいですね。でも多少の浮き沈みはあってもコンスタントに幕内力士を出しているのですから、親方としても手腕があるのでしょうね。


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