長谷川戡洋(はせがわ かつひろ)

強い人でした。いつも三役、それも関脇にいた感じのある人で、「三役の留守番」と言われた事もありました。関脇の通算が21場所あるのですから、これはもう印象としてはいつも関脇にいたような感じがしますね。

この人で未だに残念がられているのが、12勝して優勝しても大関になれなかった事です。実績から言って十分なってもいい成績でした。本人も、そして多くの人がそう思ったのですが、もう一場所様子を見るという事になって、ついに昇進できませんでした。長谷川自身は引退の時に「自分では大関になったつもりでいる」と言っていましたが、無念の気持ちが伝わって来る言葉ですね。

長谷川の相撲は左を差してからの寄り、投げという堅実な取り口でした。ですから成績も安定していて、すぐ幕内の上位で活躍するようになりました。そして大関昇進も間違いないと言われ、またそれにふさわしい内容の勝ち星も上げていました。それでも結局大関になれなかったのは、早くから上位力士として活躍していたので、ある程度の成績をあげても当然と思われた事も原因としてあげられるかもしれません。

それと、関脇の常連になってみんなが大関になるであろうと注目し始めた頃に、立合の待ったが多くなった事も影響しているかもしれませんね。長谷川本人としては「慎重に」という気持ちが待ったとなっていたのかもしれませんが、見方によっては積極性にかけるようにも見えます。堅実な相撲を取ったのが逆に災いしたという事もできるかもしれません。「もしも」というのは言ってもしようがない事ですが、この待った(よく「立ち渋り」と表現されていました)がもっと少なかったならば、大関昇進は確実だったかもしれません。

番付面では不運があった長谷川ですが、人生の面では幸運で、何回か命を拾っています。最初は子供の頃に船に乗っていた時に冬の海に落ちそうになって、助かった事があります。次は佐渡ヶ嶽部屋でふぐ中毒事件があった時に、外出していてチャンコを食べなくて助かった事があります。最後は北海道から帰る時に急用ができて乗るつもりだった飛行機の予定を変更したら、その飛行機が墜落してしまった、というものです。ですから、こんなに幸運を持っているのだから土俵の面で多少不運があってもやむを得ないと言った人もいますが、これはちょっと乱暴な意見ですね。

長谷川は優勝の後も、実力の低下はあまりなく、長く三役力士として活躍しました。引退後は秀ノ山親方となり、部屋の後進の指導に当ると共に、協会の役員として審判委員や地方場所委員、在京委員などをつとめています。引退後も貢献するところが多いようですね。


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