鏡里喜代治(かがみさと きよじ)

この人は、何と言ってもその太鼓腹が見事ですね。本当に芸術品といってもいいくらいです。顔も穏やかですが、本当に実直な人でした。

時津風部屋の力士ということになっていますが、最初入門したのは大関鏡岩が開いた粂川部屋です。なぜ部屋が変ったかというと、鏡岩は双葉山と仲がよく、双葉山が「双葉山道場」を開いたときに(これが現在の時津風部屋になるわけです。いまでもこの部屋では道場といっているはずです)自分の部屋を合体させてしまいました。これは鏡岩が双葉山の相撲への取組方、考え方に共鳴していたからです。鏡里の四股名の由来もこれでわかりますね。鏡岩の「鏡」をとっているわけです。

鏡里の引退はちょっと残念な形でした。 土俵生活も晩年になって成績もあまり上がらなくなってきた鏡里は、ある場所前に「10勝できなければ引退する」といってしまいました。その場所必死で取ったのですが、惜しくも9勝で留まってしまいました。体力的にはまだまだ引退しなくてもよかったのですが、場所前の発言が言質となってそのまま引退してしまいました。 それにしても律義な話ですね。

横綱になってからの取り口はじっくり構えて出る四つ相撲でした。ところがそれまでは突っ張りを主体にした動きのある相撲を取っていたということです。取り口が変化した原因は膝の故障にありました。取り口自体は堅実でしたが、やや成績にむらがあり、第一人者として君臨するには至りませんでした。

そういえばこの人、二瀬川に張り倒されて負けたという記録があります。土俵中央にダウンしてしまったのですね。それから若乃花に投げ飛ばされたこともあります。負けたときのエピソードが割合有名なような気もしますね。でも支度部屋でのインタビューで「明日は若乃花ですけど大丈夫ですか」ときかれて「こっちは横綱だよ」と失礼な質問に精一杯の抗議をしたのも人柄があらわれていますね。この時は鏡里の方が上位なのですから、本当は無礼千万な質問なんですけどね。

引退後は立田川親方として時津風部屋で指導に当たっていましたが、双葉山死去の後、40日ほど時津風親方を名乗ったあと独立して立田川部屋を起こしました。親方衆だけで、弟子を一人もつれない独立だったために随分と話題になりました。その後の親方には豊山がなりました。現時津風親方ですね。あの双葉山の部屋にこんな相続の騒ぎがあったのは残念ですね。でも、まぁこんなものでしょうかね。北天佑が立田川部屋の年寄名だった二十山を名乗ったとき、まだしこりが解けていないのがよくわかりました。二十山は現立田川親方が時津風襲名前に名乗っていた年寄名だからです。立田川と時津風とがうまくいっているならば、年寄名を一門外に出すことは有り得ないはずですから・・・。 部屋継承に当っての鏡里の無念がよくわかるような気がします。

ライバルだった吉葉山とは何から何まで対照的でしたね。明るくて、派手好みの吉葉山と地味で落ち着いた鏡里と。この両者が相前後するように昇進して、最後には横綱として並び立ち、同時に引退したのですから、こんな点はおもしろいですね。


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