柏戸 剛(かしわど つよし)

この人についたあだ名が「サラブレッド」でした。角界のサラブレッド、と言う意味なのです。名づけた人はそこまで考えてたのかどうかは解りませんが、柏戸と言う力士を実にうまく表現しています。

サラブレッドは、競走馬としてつくり出された馬です。「走る」と言う事に特殊化しているので、走る早さは一番なのですが、それ以外の点ではあまり強靭な馬ではありません。特に足が弱点となっています。競走馬の骨折と言うのはよくある事で、名馬と言われていた馬でも、競走中の骨折が原因でそのまま死亡する例がよくありますね。「早さと脆さの同居」というのがサラブレッドの宿命といえるかもしれませんね。同様の事が柏戸にも言えました。横綱になってこれからと言う時に骨折をくりかえして、実力ほど優勝回数がのびて行かずファンをやきもきさせたものでした。

突っ張りを主武器にして上がって来た時から、柏戸はスピードがありました。後年になっての「左前みつ、右おっつけ」の型を完成させてからの爆発的な出足が印象に強いですね。それこそあっと言う間に勝負がついてしまうので、うっかりすると見落としてしまうのですが、立ち上がって左で前みつをとる早さ、そして右を筈にして上体を浮かせてしまう強さ、この2点があってこそあの圧倒的な出足が生きたといえます。性格そのままの、豪快で淡白な相撲といえます。でも魅せましたね。今思っても素晴らしい取り口だったと思います。ホント、芸術品と言いたいような気がします。こんな人がいるから、優勝回数とか、通算勝利数とかだけで力士をはかるのはどうもねぇ、と思うわけです。

入門当初から「将来は横綱だ」と言われるような人は結構いるのですが、本当に横綱になる人と言うのは意外と少ないものです。柏戸はその希な例のひとりです。 本名の富樫で土俵に上がり、後に柏戸となるわけです。この点からも彼への期待度がうかがわれます。そもそも(別に固い話しではないですよ)江戸相撲にとって伊勢ノ海と柏戸と言うのは由緒のあるものなのです。相撲の興行に当って中心となっていたのは古くからこの伊勢ノ海と雷だったのです。そして代々の伊勢ノ海は柏戸を名乗った力士が襲名しています。この柏戸の親方も、藤ノ川から柏戸を名乗っていました。そして引退後、伊勢ノ海となっていました。このように相撲界では伝統のある四股名を名乗ったのですから、これはそのまま彼への期待の高さをあらわしている事になります。

ちなみに、この柏戸は11代目です(たしか)。代々の柏戸はみな伊勢ノ海を名のっていますが、引退後鏡山となったこの柏戸は伊勢ノ海を名のらない最初のケースとなります。江戸時代の柏戸では、宗五郎と利助が有名ですね。

余談ついでに、初代の柏戸は村右衛門といいます。これは出身地の「柏戸村」からとったものです。現在では、埼玉県北埼玉郡北川辺町大字柏戸という地名になっています。ま、本人にしてみれば自分の出身の村の名前を名乗っただけなのに、相撲界でこんなに由緒のあるものになるとは思ってもいなかったでしょうね。

で、柏戸です。 いかにも彼らしいエピソードとして有名なのは、塩原温泉での療養生活でしょう。骨折の治療のために温泉に出かけた柏戸は、その土地ですっかりリラックスして再起を期しました。中学生達と一緒にバレーボールをしたのもこの頃です。「それ、柏戸いくぞ」なんて声をかけられて「よし」なんてスパイクを打ったりしていた柏戸のおおらかさと、横綱なんて言う事をすっかり忘れて付き合っていた中学生とは、なかなかいい光景ですね。ところが、試験が始まったので、中学生達と遊ぶのを遠慮していていた柏戸を、今度は中学生達の方が誘いに来た、といいます。両方ともすっかり仲よくなってしまったわけですが、こんなところに柏戸の人柄があらわれているように思います。

さて、故障のなおった柏戸は、本場所に臨みます。 この場所、久しぶりに土俵に上がった緊張感もどこへやら、連勝を続けて千秋楽を迎えました。千秋楽の相手はこれも連勝を続けていた大鵬です。結びの一番で一気に大鵬を破り、久びさの優勝を全勝で飾りました。この時、人前もはばからず大粒の涙を流していたのは純朴な柏戸の性格がよくあらわれている光景でした。横綱が泣いたと言うのは、彼が最初ではないかと思います。でもこれを悪く言う人はいませんでした。この点で、土俵下で泣いた小錦と同じですね。

場所後、柏戸は塩原へ赴き、中学生全員にお礼として下敷を配りました。このとき、挨拶をしていた柏戸は、感激の余り絶句してしまったと伝えられています。

その後、優勝回数ではついに大鵬に追付く事が無かった訳ですが、大鵬との対戦では遜色なく、ほぼ互角の成績でした。そのためファンは「優勝回数では差がついたが、実力は互角だ」と力説したものでした。実際、大鵬との対戦で、これほど勝星をあげた力士は他にはいません。この点をもってしても両者の力関係がよくわかると思います。

引退近くなったころの柏戸は、「土俵の懐メロ」と言われていました。強い力士が晩年になっても全盛時の面影を残していた事、既に実力的に優勝はおぼつかなくなっていた事、こんな点がそういわれた理由でしょう。この頃の成績は10勝前後がお決りのようになっていました。どうしてかというと、当時の取組編成は場所の前半には下位力士と対戦し、後半になってから三役以上の上位力士との対戦が始るというやり方だったからです。ですから下位力士には十分勝てるので、前半は勝星が多く、上位力士との対戦が始まる後半には負けが多くなる、というパターンになる訳なのです。要するに、勝てる力士には勝てる、勝てない力士には勝てない、ということがはっきりと星取の上にあらわれていた訳です。なんか、この人らしいですね。・・・で、まあ、こんな柏戸が非難されていたかというと、実はそうでもなかったというのは、結局人徳なのでしょうね。

引退後は部屋を創設し、幕内力士を何人か育てています。指導ぶりは大変厳しく、周囲にあるものを何でも投げつけるので、ものを置いておけないという事です。その反面あっさりしていて「辞めるときは挨拶なんかいらない。挨拶されるような立派な指導なんかしていないからな」というのが口癖でした。でも、本当は弟子思いなのですよ。あの小沼のエピソードなんかはその典型でしょうね。

小沼は、柏戸が育てた最初の幕内力士の一人です。「私、親方に惚れています」と明言していた、気風のいい強気の力士でした。ところが入幕2場所目だかに土俵上で足を骨折してしまい、そのまま急降下してしまいました。故障は直ったのですが、精神的なものが原因したのでしょう、そのまま勢いを失ってしまいました。本人も色々と悩んだようですが、結局居たたまれなくなったのか廃業してしまいました。柏戸も「おかげで部屋が明るくなって助かった」なんて言っていましたが、実は小沼の事をずっと心配していたのは確かです。

後年になって、小沼がひょっこり部屋にあらわれて、「自分の結婚式に出席して欲しい」と頼んだときに喜んで承諾しました。そして夫婦で出席して上機嫌で帰ってきたといいます。この頃でしたか「おれに遠慮する事なんか無いんだよ。いつでも来たければ部屋に来ればいいんだ」と言っていました。こんな言葉が小沼にも届いてい、小沼も本当は親方に会いたかったのでしょうね。この結婚式後、また部屋へ出入りする様になったという事です。力士としては挫折してしまった小沼ですが、相撲界に入ってよかったと思えるようになったのも、柏戸の人柄によるところが大きいように思うのですが、如何でしょう?

審判部長になってからはやっていないのですが、NHKの解説もやっていました。これがまた自分の相撲と一緒で元気の無い相撲をとった力士には本当に怒っていたのが印象的でした。「景気のいい相撲を取って欲しいね」とよく言っていたのがこの人らしいですね。それとつり出しでだらしなく負けた力士の事を「何だ歳暮のシャケみたいじゃないか」といっていたのはなかなか表現力のある人なんだなと思わせますね。

それにしても、あの爆発的な力を見せた相撲を受継ぐ人がいないのが残念ですね。短い中に相撲の技術が凝縮され、見た目はあっさりしているのですが、相撲の技術の奥が深い事をおもわせる取口でした。


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