麒麟児和春(きりんじ かずはる)

若々しい四股名ですが、現役の間ずっとその通りの相撲をとり続けました。騏麟児としては二代目で確か新入幕の時に名乗ったような記憶があります。初代はもちろんあの大騏麟です。

相撲ぶりは回転の早い突っ張りを主体にした徹底した突き、押しでした。富士櫻との一番が呼び者になっていて、毎場所素晴らしい勝負を展開してくれました。厳しい相撲をとる二人ですから、勝負がつくまで本当に目を離せない取り組みでした。

騏麟児は入幕してすぐから幕内上位で相撲を取り、以後そのまま定着して相撲をとりました。その点では安定した力を持ってました。

騏麟児の活躍していた頃は、昭和28年生れの力士が幕内に顔を揃えていたので、彼等をまとめて「花のニッパチ組」と言っていました。他に北の湖、金城(栃光)、大錦、若乃花と役者が揃っていました。特定の年に生れた力士が揃って活躍する事はあまりないので、こう呼ばれたのでしょうね。今思い出しても、それぞれに個性があって懐かしいですね。

騏麟児は外見は柔和な感じですが、相撲ぶりがそうであったように、はっきりとした考えのある人でした。その一つに、自分の家では四股名で呼ばせなかった、という事があります。きっと家に帰れば一人の人間で、そこでは垂沢和春なんだ、という事なのでしょうね。それからおもしろい話としては、人気力士になっても暫くの間おねえさんから小使いをもらっていた、という事があります。これは幕下までは給料がないですから、ありがたいでしょうけど、関取になればいりませんよね。これはいつまでもかわいい弟と思っていたからでしょうね。出す方も偉いですけど、受け取る方も偉いですよね。でも垂沢家の雰囲気が思われて、微笑ましいエピソードですね。

この人で忘れてならないのは、力士生命が長かった事です。幕内在位84場所というのは、高見山に次ぐ記録のはずです。このあたり、しっかり稽古をしていた事が解りますね。

それとちょっと意外だったのが、引退してからの活躍ぶりですね。ツボを押さえた判りやすい解説でした。そのためか相撲の番組以外にも出演して相撲について語る事もありました。これもなかなか好評だったようです。


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