北の富士勝昭(きたのふじ かつあき)

最後は横綱になり「北玉時代」と呼ばれるように第一人者として君臨したわけなのですが、そうなるのだろうか?と思わせた人でした。

初土俵は大鵬と大差ないのになかなか昇進せず、ついに大鵬の次の時代をになう事になったのです。そういえば同期生の龍虎もなかなか昇進しなかったのもおもしろいですね。結局昇進の遅かったこの二人が最後まで残ったというのですから、わからないものですね。

北の富士の相撲は「スピード相撲」と言われていました。立合に左を差して、一気に寄って行き、相手が残れば外掛け・上手投げと言った技が出ました。

北の富士の土俵人生でおもしろいのは、昇進のスピードが早かったり遅かったりする事です。確か幕下までは遅かったはずですが、十両はあっという間に突破して入幕しました。それから程なく大関に昇進したのですが、ここで休息に入りました。そのためひょっとしたら大関でおわってしまうのではないかと言われていましたが、突如横綱に昇進しました。こんなあたりに安定性のない、ムラッ気と言われるところが出ていますね。

北の富士には華やかなムードがあり、土俵が明るくなる人でした。ところがというべきなのでしょうか、涙もろい面もありました。それをあらわす2つの場面は殊に印象的ですね。

一つは九重部屋独立の時です。このとき出羽海部屋に残ってもよかった北の富士は、自分を入門させた九重親方について行く事にしたわけです。当時の出羽海親方も、北の富士を本当は手離したくなかったと言われています。部屋を出て行く時、おかみさんの前に出てあいさつしようと思った北の富士は、言葉が出ずただ涙をこぼすばかりでした(これは写真もあります。何か、ジンとくる写真ですよ)。

もう一つは玉の海の死去の時です。この時の北の富士はいろいろと話題をまいたものです。この時の巡業は北の富士班と玉の海班とに別れての巡業でした。玉の海が急病になって東京に帰った後、横綱土俵入りが無くなってしまうというので、その日休みだった北の富士が急拠呼び出されて玉の海の代わりに土俵入りを行いました。

北の富士はさて土俵入りとなって慌てました。急いで来たので横綱土俵入りの支度はありません。あるのは玉の海の横綱です。ところが北の富士は雲龍型、玉の海は不知火型で綱が違うのです。「えい、面倒」と思った北の富士は玉の海の横綱を使って不知火型の土俵入りを披露しました。これ、さり気なくやってしまったのですが、歴史始まって以来の珍事なのです。というのは、横綱土俵入りの型というのは昇進の時に決めた型だけを行う事になっており、違う型の土俵入りをする事はこれ迄なかったのです。それを北の富士は平気でやってしまったのです。もちろん、理由はあります。綱の長さが不知火型用になっていたので、雲龍型には使えなかった、ということなのですが、それにしても度胸のいい事ですね(ちゃんと写真も残っています)。

この土俵入りを終えた後、北の富士は巡業先へ戻りました。程なくして玉の海死去の知らせがその北の富士に届いた時、最初は本当にしていなかったのですが事実だとわかった時、カメラの前で大泣きに泣いたのです。このように手放しで泣いたというのは、全勝優勝した柏戸以来でしょうね。

もちろん、玉の海のいない最初の場所では北の富士が優勝しました。このあたり、きっちりとしていますね。もっとも、この後すぐに調子を崩して「不眠症」という病名で休場してしまったのです。このあたりに人のいいところが出ていますね。

北の富士の持ち味は、なんといってもその明るさですね。だから随分得してます。この人が横綱に昇進した時の最初の台詞が「歌はやめる」というのでした。大関時代の北の富士は歌手でもあったのです。あとで増位山が有名になりましたが、北の富士が歌手兼業のハシリというわけです。

横綱になって休場していて、こっそりハワイに行ってサーフィンをしていたら、しっかり写真にとられてしまい、協会からお目玉を頂戴した事もあります。

なんか、やることがやんちゃ坊主みたいなところがあるんですね。でもこの明るさが、大鵬時代の不人気をはねかえして、相撲の人気をとり戻すのに貢献があったと思います。ただ第一人者になれるほどの実力がありながら、君臨する事ができなかったのは性格的なものがあったのでしょうね。一人横綱であった時期にあまり優勝していないのは、北の富士のそんな性格を良く示していると思います。

そうです、思い出しました。ある場所で、優勝するかという時後半戦に高見山と対戦して、よせばいいのに「かいなひねり」にいって自滅してしまった事がありました。あとで「しまった」なんて言ってましたけど、負けてから言っても遅いですよね。この時高見山に負けていなければ、優勝回数があと一回増えているはずです。惜しいですね。

気合の入った時の北の富士は相手を寄せ付けない相撲をとりました。ところがそうでないときはコロリと負けてしまうのでその落差がもどかしく思わせました。十分強いのにあまりそういう印象がないのは、そのあたりに原因がありそうです。

引退後は、井筒部屋の相続争いの影響を受けてしまい、一時井筒親方となっていました。師匠の九重がなくなった後、九重を継いで君ヶ浜(元鶴ヶ嶺です) と親方名跡を交換しました。これで九重親方となり、横綱を二人育て、現在陣幕親方となっているのは周知の事ですね。

現在審判部で活躍していますが、さてこの後協会の幹部としてどのような働きをするのでしょうか。部屋経営をしない分協会の仕事に専念できるわけですが、手腕が注目されますね。

それにしても、この人の明るいムードは得難いですね。


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