北の湖敏満(きたのうみ としみつ)

「怪童」といわれたりした事もあります。最近での大横綱のひとりでしょうね。たしか中学生力士の最後の方で、最年少昇進記録をいくつか作っています。北の湖は大鵬の最年少記録を破って行ったのですが、今度は「不滅」と言われていた北の湖の記録を貴ノ花が破って行くのですから、わからないものですね。

北の湖という人は、横綱として圧倒的な存在感を示していた割には生涯の勝率があまり高くありません。これはこの人が地位が上昇するに従って好成績を上げるようになった事を示しています。人柄そのままに着実に成績が良くなって行ったわけで、「進歩」というものを眼前に見せられていたような気がしました。

最年少記録を作って昇進して来た北の湖は、もちろん注目されていました。しかし三役に昇進してから横綱まで一気に登りつめて行く様は、突然爆発的に強くなったという印象を与えました。ほんとうに「アレヨアレヨ」という間に横綱になってしまったのですから、まさに「昭和新山の爆発」といった感じです。

たしか関脇に上がって、その場所に10勝したのがきっかけになったと思います。更にこの場所で足をけがし、そのために引退するまで包帯をしていたと思います。でも足が痛くて動けないのに土俵に上がって、白星をあげているのですから大したものですね。この負けん気の強さが北の湖を大横綱にした原因の一つでしょうね。

北の湖の相撲は、重量級の力士であるのにそぐわないようなスピード感のあるものでした。とくに巻き変えが素速くて、なんか技能派の力士のようなところがありました。上手投げも土俵際で打ったりしていました。

関脇で好成績をあげて大関になり、あっという間に横綱になったわけですが、第一人者になるにはちょっと時間がかかりました。優勝も重ねていたのですが、輪島に勝てなかった事、優勝決定戦に弱かった事、この二つの点があったために、君臨するというところまでにはなかなか行かなかったわけです。そしてその課題を解決した後からが本当の北の湖時代でした。

横綱としての北の湖は毎場所優勝か準優勝でした。彼自身、12勝から13勝は最低のノルマとしていました。なにより素晴らしいと思うのは50場所連続勝ち越しという記録です。ほぼ10年間にわたって毎場所勝ち越しを続けたという事になりますから、この間休場せずに出場をした事になりますね。ところで、この記録の中を良く見ると、連続して10勝以上の勝ち越しというのが23場所あります。あまりふれられる事のない記録ですが、第一人者として君臨した横綱にこれ程ふさわしい記録はないでしょう。そしてこの連続勝ち越しの記録こそが北の湖の安定感を十分に物語っているように思います。

北の湖が横綱になった時、横綱審議委員会から「酒の量を減らすように」という注文が付きました。酒が強かったのが良くわかるのですが、横綱昇進の時にこういう注文が付いたのはこの人くらいですね。

家庭でもまじめな人だったようで、北の湖夫人が気分転換のためにその当時はやっていた「スペース・インベーダー」の機械を購入して、二人でゲームをしていた事があります。夫人が心配するほど相撲以外の事に関心がなかったのでしょうね。それにしても大きな横綱がテレビゲームを真剣にやっている図というものはなんとなくユーモラスですね。

人気の面では、北の湖は損をしていました。ま、それも無理もないので、貴ノ花の相手役となってはどうしても引き立て役になってしまいます。ところがおもしろいもので、北の湖が衰えを見せるころになると、その人間性に注目する人が増えて今度は人気が上昇して来ました。このあたり人気というものの不思議さがあらわれていますね。

さて北の湖の業績としてあげておかなくてはならないのは、両国の新国技館建設です。この事業は北の湖がいたからこそできた、という面があります。横綱として安定した強みを発揮し、入場者数も安定していたからこそ、財政基盤がしっかりしていて国技館の建設ができたのです。残念ながら国技館が完成して、そこで本場所が行われた時は北の湖の現役がおわる時でした。そのため新国技館の土俵で勝ち星をあげることはできませんでした。それでも土俵に上がる事ができた事で北の湖は満足したのか、その場所で引退をしました。

引退後は一代年寄北の湖となって部屋を興し、弟子を育て始めました。親方としては、審判委員として土俵下に姿を見せていますね。まだ若いので、これからですが、協会の役員としても活躍してもらいたいですね。

北の湖は華やかな人気こそありませんでしたが、抜群の安定感で第一人者として文句のない働きをしました。横綱の典型と言ってもいい人ですね。人柄そのままの誠実な土俵態度はこれから横綱になる人も模範として欲しいと思います。


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