琴ヶ濱貞雄(ことがはま さだお)

内掛け一本で大関に昇進し、あるいは横綱か、と思わせた人でした。今でも内掛け名人として話題に上る事がありますね。ニックネームが「南海の黒豹」でした。あれっと思う人もいるでしょう。そうです、これは若島津のニックネームでもあります。でも若島津は言って見れば2代目の「南海の黒豹」ですね。

ところでこの「黒豹」というのは琴ヶ濱の特徴を良くとらえています。当時でも小柄だった琴ヶ濱はいつまでも体重が増えなかったこともあり(稽古のしすぎと言われています)、本当に厳しい表情でした。

琴ヶ濱が入門した当時の二所ノ関部屋は、内部的にはいろいろと火だねがあったのですが玉錦以来の荒稽古はそのまま続けられていました。神風、力道山、佐賀ノ花、琴錦、大ノ海といった力士達が将来の独立を考えながら弟子を集め、稽古をつけていたからです。中でも力道山は猛烈でした。この力道山に向かって行った新弟子が琴ヶ濱と若ノ花でした。

「鬼」といわれた若ノ花と競争するように稽古していたのが初土俵がちょっと早かった琴ヶ濱でした。この二人はいつも一緒で、脱走と間違われて痛い目に合わされたのも一緒でした。

からだの小さい力士は何か特徴が必要です。琴ヶ濱は入門する前から草相撲で良く使っていた内掛けを自分の得意わざにしようとし、その稽古にはげみました。

琴ヶ濱の内掛けには手順があります。まず左四つに組む。次に相手の上手を切る。相手が上手を欲しがって踏み込んで来ると左足で相手の右足に刈る様に内掛けをかける。こういう手順でした。ポイントは上手を切る事です。これには琴ヶ濱の長い胴が役に立ちました。幕内で活躍している頃は腰をちょっと振るだけでおもしろいように相手の上手が切れました。この腰を振るというのは見ていると簡単に見えますが、自分の技として完成するまでは大変だったようです。何しろ来る日も来る日も「プルン、プルン」ですから、腰が疲れしまい、トイレでしゃがむのも死ぬ思いだったそうです。こうした苦心のかいあって内掛けの名人として活躍するようになったわけです。

幕内で上昇して行く時、名人といわれるようになるきっかけとなった一番がありました。それは栃錦との相撲でした。技の名人と言われていた栃錦はもちろん内掛けも得意技として多用していました。ところがその栃錦を琴ヶ濱が内掛けで破ってしまったのです。これ以後、栃錦は内掛けを使わなくなってしまいました。後年「内掛けという技は自分が掛ける技だと思っていたのだが、反対に掛けられてしまった。もう内掛けはやめたとその時思った」と語っていました。さらに「とにかく胴が長いんだ。いくら手を延ばしても届かないんだ。本当に参った。」というような事も言っていました。この一番以後、名人琴ヶ濱が一気に有名となったわけです。

出世の早かった若ノ花のあとを追って、琴ヶ濱も入幕し、幕内上位で活躍し、大関に昇進しました。大関昇進後は名人芸を発揮しあわや優勝という場所もありました。このころになると、あまり内掛けに頼らず、内掛けと思わせておいて投げで決めたり寄りで決めたりしていました。取り口の幅が広がって大関に昇進できたわけですね。

その琴ヶ濱がついに右足の親指を故障してしまいました。内掛けを掛ける時のふんばりがついに怪我となってしまったわけです。内掛けの威力が減退すると共に琴ヶ濱も下降線をたどる事になりました。それでも執念を見せ、土俵に意欲を燃やしていました。ところでこのころは大関は2場所連続して負け越さないと陥落しないという制度を取っていました。残念な事に琴ヶ濱はこの制度によって助けられる事が多くなって来ました。こうなって来ると「大関にしがみつく姿は見苦しい」などどいう声も上がって来ます。それでも土俵に上がっていたのですが、ついに陥落の可能性が出て来た時点でやっと引退を決意しました。名人大関の晩年にやや悪いイメージが残るのが残念ですね。

引退後は尾車を襲名し佐渡ヶ嶽部屋の親方として後進の指導に当たりました。審判委員として土俵下に姿を見せてもいました。あまり目立たない親方でしたが、佐渡ヶ嶽部屋が現在のような勢力を持つようになったのは琴ヶ濱の力が大きいという人もいます。親方が死亡した時も部屋を継承しようという事はせず、弟弟子に協力して部屋のためにつくしたわけですね。

現在の佐渡ヶ嶽部屋には内掛け名人は出ていません。琴ヶ濱を知るものにとってはその点がちょっとさびしい気もします。


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