前田山英五郎(まえだやま えいごろう)

幕内のほとんどを大関として過ごしたという、ユニークな土俵歴の人です。もう一つおもしろいのは、引退するときです。体調が悪いといって本場所を休場したのに、来日中のアメリカのプロ野球の試合を見にいって、よせばいいのに監督と握手している写真まで取らせたので協会の幹部を怒らせてしまい、やむなく引退した(させられた?)わけなのです。お粗末といえばお粗末なのですが、何となくおかしい感じもします。なんか、北の富士が休場してハワイにいき、サーフィンをやっている写真が公表されて不評を買ったのを思いだしますね。

突っ張りを武器にして、土俵上を暴れ回るという相撲ぶりで「闘将」というあだ名がついていたようです。双葉山に上突っ張りを見舞って、「張り手である」として非難をされたこともあります。それくらいムキになって双葉山を始めとする立浪部屋の力士に向っていったようです。もっとも当の双葉山は「突っ張りは立派な相撲の手だ」と涼しい顔をしていたそうです。

同時代の人にとっては、「名大関」という印象が深いようです。9年半という大関時代は、どう見ても長すぎますね。強い大関ではあったが、横綱には後一歩及ばないというところなのでしょうね。ちょっと痩型なので、その辺りが影響していたのかもしれませんね。

むしろ引退後に大きな仕事をしています。あの高見山をハワイから連れてきたのがこの人なのです。今日の外人力士ブームのきっかけを作ったわけですね。また本人も外国に強いのを自任していて、相撲を外国に紹介することにも熱心でした。ですから小錦が大関になったのは前田山が蒔いた種が大きく花開いたということもできるわけです。

もう一つ忘れてならない話があります。佐田岬といっていたころに右腕を故障したことがありました。この腕を手術してもと通りにしてくれた人の苗字をとって前田山と改名したのです。力士としてふたたび土俵に上がれるようにしてくれた人の恩を忘れないようにと四股名につけたところに、この人の気持ちがあらわれていますね。単なる「闘将」ではないことがわかります。

師匠としても立派な人で、横綱・大関をはじめ多くの幕内力士を育てています。でも不思議なことに、この部屋の力士はみんな突き・押しの人ばかりなのですよね。師匠の影響力が強すぎるのか、そういうタイプの人が自然に集まったのかその辺は判りませんがね。


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