前の山和一(まえのやま かずいち)

闘志あふれる相撲ぶりの力士でした。また均整の取れた力強い体付きと、それに似合わぬチョコマカとした土俵態度とがおもしろい対照を示していました。高砂一門久しぶりの横綱かと期待もされたのですが新大関の場所を右足の骨折で休場してからすっかり勢いを失ってしまったのは残念でした。

前の山の相撲は高砂部屋伝統の突き押し相撲でした。時には張り手を混じえながら、あくまでも突いて前に出る相撲は本当に迫力がありました。まさに四股名のとおりの相撲でした。

前の山にとっての幸運は、同時代にやはり大型の高見山がいた事、さらに北の富士が高砂一門に入って来た事ですね。特に北の富士が一門に入って来た事は、自分よりはるかに強い、大型の力士と稽古ができる事になった訳ですから、地力を向上させる上では願ってもない事でした。前の山が大関にまで昇進し、しかも強い大関として更に横綱までもねらえるような実力を持つ事ができたのは北の富士の存在が大きいと思います。

前の山は若い頃、よく部屋を逃げだしていました。そんな事から、大成しないのではないかと言う見方もあったようですが、当時の高砂親方(元前田山)はそんな前の山を「きっとものになる」と思っていたようです。地位が上昇するにつれ脱走する事もなくなり、十両も比較的早く通過して幕内に昇進しました。それから徐々に実力をつけて、関脇で活躍してから大関に昇進したわけです。昇進時の成績は立派なもので、12番、13番の勝ち星を常に上げていました。この波に乗っている時の前の山は本当に強く、横綱大関との相撲でも同格のような印象を与えたものでした。特にやぶれた後の前の山は必ず相手の力士を一睨みしてから礼をして土俵をおりていました。本当に悔しそうでしたね。

前の山の土俵態度の特徴は、ちょっと落ち付きがない事です。本当はナーバスな人なのかもしれませんね。とにかく土俵に上がってから立ち上がるまでの動作と言ったら、あれ以後だれも同じ事をした人はいませんね。何をしたかと言いますと、回しを異様に気にする事です。それも横回しではなく、縦になっている部分をしきりに気にしているのです。仕切り直しで塩に行くたびに縦になっている部分に指をあてて位置をずらす事をするのです。時には軽く片足を上げたりしながらです。これを塩に行くたびにやるので、縦みつの位置は右へ左へ少しづつ動くわけです。で、立ち上がるころにはやっぱり最初の位置に戻って、それで相撲を取るわけなのです。緊張しているからこういう動作を、多分無意識にしているのでしょうけど、何か心配しましたね。ひょっとして回しが外れてしまうのではないか、と。幸いな事に(?)回しが外れるような事もなく、無事に相撲を取っていましたけれど、あんなに回しを気にする動作をした人と言うのはこの人だけなような気がします。

十分の実力を示して大関に昇進した前の山でしたが、大関としては不振を極めました。前に攻め込む相撲が見られなくなったので「後の山」といわれ、8勝7敗が続いたので「ハチナナ大関」といわれ、支度部屋では納得の行かない相撲が続くので舌打ち多くなり「小鳥屋の店先」と言われたりしました。確か大関としては9勝が最高で、あとは8勝か負け越しと言うのが多かったように思います。もちろん、前半戦をいい成績で通過したのに、怪我で休場したりと言う不運もありました。でも本当にいるだけの大関と言う感じとなってしまったのは昇進時とあまりにも違うだけに残念でした。あるいは大関昇進時にあった前田山襲名問題が影響していたのかもしれませんね。襲名確実と言われていたのに、親方の知らないところで話題になっていたのが良くなかったのか、中止になったように記憶しています。これでがっかりしたのが歯車が狂う原因の一つになったのかもしれませんね。ま、後援会がいい時も悪い時もあると言う事の典型的な例といえるかもしれません。

前の山はある面では犠牲となって大関を陥落しました。陥落が決まった場所はカド番だったのですが、琴櫻との相撲が無気力相撲だと認定され、高砂親方はその責任を取ると言う事で、以後前の山を休場させてしまいました。この場所休場しなければ、あるいはカド番を脱したかもしれないのですが、親方の命令でやむなく休場し、大関陥落となったわけです。ところで、一方の琴櫻は休場せずにそのまま本場所をつとめ、後に横綱に昇進しているのですから、なんとなく割り切れない感じがありますね。でもこの時何も言わずに親方の指示にしたがった前の山は見事だったと思います。おそらく言いたい事は山ほどあったに違いないと思いますけど・・・

前の山はそれ以後気力を失ったのか、そのまま幕内下位まで下がって行きました。神風さんがよく「力士は落ちたら落ちたところの力しか出ない」と言っていましたが、前の山もそんな感じでした。引退した場所では、吉の谷との一番で、足を取られて甚だ格好の悪い負け方をしてしまい、それからの相撲は眼に見えて気力が見られなくなってしまいました。神風さんがこんな前の山について「腐りましたね。」と表現していましたが、ついにこの場所最後に引退してしまいました。

大関としては充実しない実績しか残せなかったのですが、引退後の弟子養成には手腕をみせてすぐに幕内力士を育てました。ひょっとしたら自分の経験を弟子養成に生かしているのかもしれませんね。


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