増位山大志郎(ますいやま だいしろう)

大関で2回優勝して、さあ横綱だというので後援者が横綱土俵入り用の化粧回しをつくったら引退してしまったというエピソードがあります。怪我のため余力を残しての残念な引退でした。

取り口は怪力を生かしての押し、突っ張り主体の激しい相撲でした。双葉山にも勝った事のある人でした。この人で良くいわれるのが鉄砲柱を使った稽古ぶりでした。鉄砲柱というものは突きを稽古するために使うものです。ですから、突っ張りのある人や押相撲の人にとっては特に大事なものです。普通は、手で突いて出る形の稽古をするだけなのですが、この人は突いた時に肱を思いきり伸ばすのでその反動で自分が仰向けに倒れてしまい、それから立ちあがってまた突いてまた倒れるという事を飽きることなく繰り返していたそうです。こういう稽古をしていたというのはこの人だけなような気がします。こんな事ができたのも、腕の力が強かったからなのでしょうが、それにしても強烈なものがありますね。

この人の優勝は2回とも決定戦を勝ち抜いてのものでした。その点では勝負強い人だったといえますね。とくに幕内の優勝者が決定戦で決まるようになった最初のころだっただけに、この方式が定着する上では功績があったと思います。決定戦が変な相撲だったりしたら、また以前のように番付の上位者が自動的に優勝者となる制度が復活したかもしれませんからね。

十分な実績・実力をもって大関に昇進したのですが、無理をしたせいで肩を故障し、そのために引退する事になってしまいました。大関としての実績はあまりありませんが、その実力は知れ渡っており、引退後に現役復活の可能性が議論された事もあります。随分話題を呼んだのですが、結局相撲協会は現役復帰を認めず、そのまま親方として部屋経営に当たる事になりました。なんでこんな事が話題になったのかと言うと、現役引退後故障箇所がよくなってきて、そうなると他にはどこも悪いところがないので「ちょっと早まったかな?」と思いだし、それが伝わったというのが真相のようです。もし現役復帰していたら、あるいは横綱になれたかもしれない、という気はしますがそれはかないませんでした。

引退後は、三保ヶ関親方として部屋経営に当たりました。 ところで三保ヶ関部屋というのはもともと大阪の部屋でした。それもあって力士数も少なく、経営が大変でした。特に独立直後は、出羽海部屋からの独立も重なっていきなり小部屋の運営に当たる事になってしまいました(それまでは師匠が死亡した事から、出羽海部屋の所属となっていました)。ほとんど無名の部屋としてこのまま終るのかと思われたのですが、大竜川が入幕してから、だんだんと幕内に力士を送り出すようになりました。決定的だったのは、北の湖を入門させた事です。この事によって部屋は上昇気流にのり、大部屋へと発展していきます。結果的には横綱一人(北の湖)、大関二人(増位山、北天佑)を育て、一時は相撲界を支える存在でした。

一方、土俵外でも多芸な人でした。相撲甚句のうまさは現役時代から有名で、双葉山の伝記映画の中でも、甚句を歌っているシーンがあるそうです。10年くらい前ですけれど相撲甚句のLP(!)にも三保ヶ関親方として録音してあるものがありました。これはひょっとしたら現在でもCDになっているかもしれませんね。なかなかうまいものでした。余談ですけど、相撲甚句の名人としては他に鬼龍川(後に勝ノ浦親方)、森ノ里なんていう人達ががいます。年とってからの録音なので声に多少の衰えがあるようにも思えますが、なかなか聞かせます。 その他には絵画が有名です。二科展に入賞した実績があります。こうなると、余技の範囲を越えてしまいますね。部屋経営の苦労が晩年になって報われて、貧乏部屋が大きなビルを建ててしまったのですから、充実した人生だったといえますね。

そういえば、亡くなった時は北の湖の実父と同じ日でした。北の湖は迷わず親方の葬式の方に出席し、その後で北海道に飛びました。北の湖と一緒に大きくなった部屋の親方らしい最後でしたが、親方と父を同じ日に失った北の湖の心境はどんなだったでしょうね。


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