大内山平吉(おおうちやま へいきち)

大内山でよくいわれる事がその身長です。2メートルを越す身長で大関になった人というのはあまりいません。そのために大内山が目立つわけです。しかも、長身でありながら下半身が強く、バランスが取れていました。その点でもめずらしい人でした。

大内山で有名なのは栃錦との一番です。千秋楽に栃錦とくり広げた熱戦は相撲ファンを沸かせました。後年になっても、「思い出の名勝負」といった企画では必ずとり上げられるのですが、この勝負にふれる時の大内山はいつも(相手が横綱だったせいもあるかもしれませんが)「栃錦に引きづられる様にしてああいう相撲になってしまった」というように控えめなコメントをするだけでした。「静かな巨人」という感じですね。誰だったか「珍しく大内山が気力を全面にあふれさせて」なんていう表現をしていましたが、そんなムードの人だったのですね。

こういう「名勝負」といわれるものには必ず勝った人と負けた人がいるので、中には自分が負けた相撲にはあまりふれられたくないという人もいるようですが、大内山はむしろ「栃錦のおかげで長く残るような相撲を取れて嬉しい」という人でした。人柄がしのばれますね。

大関に昇進したものの、膝の故障で陥落してしまいました。しばらく幕内で相撲をとって引退しました。引退後は立田山親方となり、時津風部屋の親方として後進の指導に当たりました。

余計な事ですが、勝負検査役としてもつとめていたので、土俵下では長くその姿を見る事ができました。でも大きな人なので、その近くの観客は土俵が良く見えないのではないか、と気になったものでした。土俵下なんて座ったことがないので判らないのですが、大きな親方が座ると、やっぱり見難いはずですよね。

大内山の転機は、親方の双葉山が死去した時に訪れました。このとき鏡里を中心として十人くらいの親方が立田川部屋を創立しましたが、大内山も時津風部屋を去りました。そして親方しかいない部屋の経営に力をつくしたのです。ようやく力士が育って来たあたりで、世を去ってしまったのは残念な事でした。


目次へ