龍虎勢朋(りゅうこ せいほう)

敢闘賞を4回も受賞しています。ですから敢闘型の力士かと思えますが、実際はあまりそういう印象はありません。取り口は突いて叩くだけの相撲でした。その分、度胸が良かったように思います。ま、その辺が敢闘賞に値するといえば言えますね。

龍虎の典型的な星取りは、幕内下位で大勝ちして幕内上位で大負けする、というパターンでした。これをくり返しながら徐々に番付を上げていき、最後には最高位の小結に到達しています。この点、本人はいやがるでしょうが、努力の人といえますね。

龍虎は出世の遅い方でした。初土俵から十両昇進まで10年かかっている事にそれは現われています。原因は、多分体重がつかなかったからでしょうね。それで出世が遅れたのだとおもいます。

龍虎の稽古が話題になった事があります。それは歩道橋を上がったり下りたりする稽古を行っていたからです。まだ力士が走る稽古なんてやっていない頃でしたので、目立ったわけです。これは龍虎が足腰の強化にと思って始めた事なのでしょうね。それもきっと部屋のそばに歩道橋があったので手軽にいつでもできるという事情があったのだとおもいます。こんな風に、実は龍虎という人は稽古熱心な人でした。本人はそんな事を見せないようにしていましたがね。

龍虎には残念な思いをした事があります。それは若乃花が引退して二子山部屋を興す時に連れて行ってもらえなかった事です。最後には、明日は若乃花が独立するという夜に、何人かの仲間と一緒に涙ながらに「連れてってくれ」と頼みましたが、ついに連れて行ってもらえなかったのです。それほど若乃花を慕っていたわけですね。ま、それでも一門ですから、いつでも顔は合わせられましたけどね。でも若乃花も龍虎の事を別に嫌っていたわけではなくて、花籠親方との約束で、ある時点以降に入門した力士だけを連れて行く事にしていたので、それを守ったということなのです。ですから何年か前に二子山部屋の新年風景をテレビ番組で放送した時に、龍虎がウキウキした表情であらわれた場面を見て、こちらも嬉しくなった事がありました。

ところで、龍虎は相撲界に貢献してもいます。昭和46(1971)年の九州場所で龍虎は右のアキレス腱を切り、そのために幕下まで落ちてしまいました。この龍虎の怪我がきっかけになって公傷制度が実施されるようになったからです。

龍虎は幕下でも真剣に相撲を取り、幕下優勝をして十両へ復帰しました。それからも懸命に土俵を努めて、ついに昭和50(1975)年初場所で小結に復活しました。この時には本当に感動しました。

そうでした、龍虎にびっくりさせられた事の一つに、あの大鵬に勝った事があげられます。すでに何回か対戦していて、もちろん大鵬の一方的な勝利でした。ところがある時、龍虎が立合に頭から突っ込んで行って、そのまま寄り倒してしまった事がありました。これは龍虎がいつもと全然違う相撲をとったので、大鵬がびっくりしてしまったのが原因ですが、それにしても思い切った事をしたものですね。大鵬も「びっくりした。でも、相手はいろんな事をして来るのだから油断をしてはいけない」と驚きと共に反省の言葉を語っていたのが印象的ですね。

もう一つ。この人は北の富士と同期なんですね。で、当然仲がよく北の富士の引退相撲の時にも解説をしたりいろいろと働いていました。その時の司会が「同期の中で一番弱かった二人が最後まで残りました」と紹介したのは傑作でしたね。そういえばこの二人、よくもてたらしいですから、そんな点でも似ていますね。

そんな龍虎ですが、左足のアキレス腱を切ってしまい、今度は引退しました。この時の龍虎には泣かされましたね。旭國との一番で怪我をして、呼び出しさんに抱えられて土俵を降りようとした龍虎は、急に呼び出しさんを振り切って二字口の所へ片足で跳んでいき、深々と礼をしたのです。この時「ああ、龍虎は引退するんだな」と判りました。龍虎の土俵にかける思いが伝わって来るようで、忘れられない場面ですね。

引退後放駒親方となり、しばらく相撲界にいましたが、ほどなく廃業してタレントとなりました。ある料理番組でレギュラーとなっていた時の龍虎がまた良かったですね。ただ黙って食べるだけの役だったのですが、食べるしぐさになんとなく雰囲気があったのを思い出します。


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