佐賀ノ花勝巳(さがのはな かつみ)

寄り一つで大関になった人です。師匠の玉錦に一番似ているという声もありました。立合に素早くたって一気に寄る相撲を一番受け継いだのがこの人でした。性格も相撲と同様の攻め一点ばりでした。そのためにいろいろとトラブルをおこしています。特に引退後二所ノ関部屋を継いでからはかつての兄弟弟子が引退からの独立・部屋創設の時にはなかなか認めないためいつももめていました。これは理事になりたい野望があったので一人でも多くの力士を手元に置いておきたかったからだと言われています。

この人の一番の業績は師匠としての業績でしょうね。あの大鵬を育て上げたのですから、すべてはその事に集中してしまいます。

新弟子の時から「将来の横綱」といわれる事はままあるのですが、そのとおりに横綱になる力士というのはあまりいません。その希な例が大鵬です。師匠は入門して来た大鵬の素質を見ぬき、すぐに手元において「英才教育」をほどこします。これは雑用から開放して、存分に稽古をさせようという意味です。更に、弟子達を集めて「これから大鵬を横綱に育てるので、みんなに協力してもらいたい」と特に古参の弟子に頼みました。これは力士の中の実際の実力者が古参の幕下力士であるという事情が理由です。彼等にソッポを向かれたら、部屋の中がバラバラになってしまいます。それでこういう事を頼んだわけです。いわば大鵬の特別扱いを認めてもらう、ということです。
ところで大鵬が入幕して、人気が爆発した頃、それまでとは違った状況が出て来ました。それはマスコミ対策です。これは大鵬が最初のケースですが、まるで芸能人と同様の扱い方で、取材申込などが殺到しました。これらを裁き、大鵬の稽古時間を確保するのが二所ノ関夫婦の最大の仕事となりました。特にいつも部屋にいるおかみさんは報道陣を一手に引き受ける事が多く、すっかり悪役となってしまいました。
もちろん、マスコミに被害を受けたばかりというわけではありません。大鵬が休場した方がいい時などはそのためのムード作りに利用したりもして、なかなかしたたかな面がありました。

相撲界では読書人としても評判で、特に漢籍が好きでした。「大鵬」という四股名も読書中に見つけだし、命名する機会を狙っていたと言います。それにしてもぴったりな四股名ですね。このほかにも黒獅子、騏麟児と動物にちなんだ名前の幕内力士が出たので、「二所ノ関動物園」という声もありました。

それにしても、攻め一点ばりの人が育て上げたのが守りの強い大鵬というのは、なかなかおもしろい取り合わせですね。

波乱に富んだ人でしたが、死後も大騒ぎがありました。「押尾川事件」と言ったらいいのでしょうか、部屋継承に当たってトラブルがありました。これは大関大騏麟(押尾川)がまだ現役を続けられたのに引退したのは、親方から部屋を継いでくれと言われたからだ、というのが原因となっています。この時、部屋継承の資格のあるのは大鵬、大騏麟、金剛の3人でした。金剛は、このとき師匠の婿となっていたので、血縁関係から資格があったものでした。このうち、大鵬はすでに一代年寄になっていた事から、状勢が悪いと思い、すぐにおりてしまいました。残る二人の争いとなったわけですが、血縁関係から金剛に決まる事になりました。これに不満を持った押尾川が力士を連れて立てこもったわけです。一緒に行った力士は、幕内では青葉城と天龍でした。

この争いは当時一門の長老だった花籠が中に入って、天龍は二所ノ関へ、青葉城は独立する押尾川に所属する、となりました。今度は天龍がこの裁きに不満をもち、程なく廃業して、全日本プロレス入りする事になりました。プロレス界にとっては良かったかもしれませんが、相撲界にとっては残念な結果となりました。

でも、金剛がその後離婚したのは、なんとなく釈然としませんね。一番得したような気がして・・・


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