信夫山治貞(しのぶやま はるさだ)

もろ差し名人、「りゃんこの信夫」として有名でしたね。本当にうまい人でした。立合に二本差して、そのまま寄り立てる相撲を得意にしていました。

ムードとしては明るいムードの人で、若い人達に人気がありました。「信夫山を囲む会」といった会を中学生達が組織して、フルーツパーラーで集まったりしたのですが、そんな中に混じってもまるで異和感のない、不思議な人でした。当時この会は話題になって新聞にも取りあげられたように思います。

とにかくスマートで、かっこよかったですね。歩き方も独特で「信夫山ウォーク」なんて言われていました。どういう歩き方かと言うと、両脇をしっかりと締めて、肱から先だけをふり、肩を動かして歩くのです。もちろん、同時に尻も振っています。こういう歩き方なので、必然的に上半身が揺れます。そのために髷のはけ先がいつも曲がっていました。それがまた魅力となっていたから不思議なものですね。

信夫山は紛れもなく名人なのですが、反面努力の人でもありました。とくに新弟子に入ってまもなく、股関節脱臼という大怪我をしています。それを克服しての土俵でした。

信夫山の稽古については、こんな事が伝えられています。下半身の強化のために山の手線を車内で何もつかまらないで何周もした、という事です。この時、鉄の下駄をはいていた、という説もあります。

また、元来右ききなので、左手の強化のためにこんな工夫をしていました。それは盆の中に豆をいれ、それを左手に持った箸でもう一つの盆の中に入れかえる、という作業でした。左手で箸を持って見るとよく解りますが、箸を持つ格好はできるのですが、力が今一つ入りません。箸を利用して左手の強化に取りくんだわけで、なるほどと思わせるものがあります。でも豆を一つ一つ入れかえるなんていう事は、根気が無ければできませんよね。

でもこういう精進の成果が上がって、名人といわれ、大活躍したのですからたいしたものですね。技能賞6回受賞というのは光りますね。二本差しに注意を奪われがちですが、出足があった事を忘れてはいけませんね。全体的にはスピードのあるキビキビとした相撲でした。これがあったからこそ、二本差しがより効果的になった、という事が言えそうです。

引退後はその当時無くなってしまっていた小野川部屋を再興しようと随分運動したようですが、結局ゆるされず、そのまま意欲を失って廃業してしまったのは残念でした。小野川部屋は出羽海部屋に吸収されていたので、独立をゆるさない不文律に阻まれてしまったというのが真相のようです。それに小野川を名乗っていなかったのも障害になったかもしれませんね。もし部屋再興が成っていたらまた名人力士を出していたろうに、と思います。

廃業後は健康も優れなくなり、最後は寝たきりになったと聞いています。


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