大鵬幸喜(たいほう こうき)

柏戸といえばもちろん大鵬です。ライバル関係の、ある意味では理想的な実例ともいえます。この二人、なんとなく二人でワンセットという感じがどうしてもぬけないのです。ご本人達、特に大鵬はひょっとしたら異義を唱えるかもしれませんね。なにせ「最も印象深い同時代の力士は?」という質問に「佐田の山」と答えているのですからね。理由は「何度も何度も真正面から挑んで来たから」ということなのです。私はこの言葉に、佐田の山に対する優越感を感じひょっとしたら大鵬という力士は意外と柏戸に対して屈折した感情を持っているのではないかと思いました。

さて大鵬です。大横綱になってしまってから言ってもあまり説得力はないのですが、十両時代の大鵬(まだ本名でとっていました)をみたとき何かドキッとしたのを覚えています。とにかくスケールの大きさを感じました。まだ細い体付きだったのですが、もっともっと大きく、のびやかに見えました。後年の大力士ぶりを思うと、大鵬の持って生まれたものが片鱗をのぞかせていたといえます(近年では貴ノ浪にチラッとそんなムードを感じました。最近の彼の様子を見ると、あれは幻だったのかしら?)。

なんとなく華やかなムードを持っていたせいか、入幕すると人気が沸騰しました。特に、初日からの連勝が決定的でした。

とにかく華やかなムードの新入幕力士が初日から連勝したのですから、人気が出ないわけはないですね。そしてこの連勝を停めるために選ばれたのが、この場所小結だった柏戸です。この一番はもう有名ですから、今更という感じもしますね。とにかくこれで柏鵬時代がスタートした事になります。それにしても「大鵬」というのはいい四股名ですね。力士の持つムードにぴったりです。

また大鵬の昇進もそんな感じでした。大鵬の昇進があんまり早かったので、北の富士や清國が大鵬の次の時代の力士のように思えますけど、実は清國は同期生、北の富士は一場所初土俵が遅いだけなのです(もっともこの二人は昇進があまり早い方ではなかったけれども)。あ、龍虎を忘れていた。この人は北の富士の同期なのでした。

昇進の最年少記録を多く持っている事から、順調に横綱まで昇進したように思われるかもしれませんが、実はそうではありません。大きくて厚い壁が存在していたのです。それが柏戸です。

二人の初対決の時には柏戸が勝ったのですが、その後も大鵬は柏戸に勝てませんでした。あるとき、栃錦と一緒にパリに行き、稽古不足のまま土俵に上がった柏戸にやっぱり勝てなかった事がありました。この時大鵬は「こんなに稽古しても、パリで遊んでいた人に勝てないのか」と泣いて悔しがったという事です。後年の大鵬から見ると思いも及ばないかもしれませんが、まだ若かった大鵬にとっての最大の課題は「打倒柏戸」だったのがよくわかると思います。

大鵬が多くの記録を持っている事は周知の事ですが、あまり知られていない記録に「幕内在位のすべての年に優勝している」というのがあります。入幕してから引退まで、毎年一回は優勝している事になるわけです。でもよく考えてください。こんな記録を残すためには、新入幕の年に一回と、引退の年に一回優勝していないといけないのです。大鵬が非凡な力士だったという事はこんな記録にもあらわれていますね。

さて大鵬の相撲ぶりです。どういう相撲かというと、残念な事実があります。実は大鵬の全盛期というのは近年では一番大きい人気の谷間の時期だったのです。満員御礼が出るのは場所の後半だけ、それも土曜日曜が主力でした。前半戦、特に二日目にはまず満員御礼は出ませんでした。「蔵前には若い人の姿が見られない」とよくいわれ、各放送局も中継をやめて行きました。そんな時期が大鵬の全盛期だったわけです。原因は、もちろん大鵬の相撲ぶりと、柏戸の不調ぶりでした。「大鵬の相撲には型がない」という意見は大鵬にずっとついて回りました。特に天龍や神風といった人達は、その事を盛んにいいました。

神風については、彼の著書に書いてあるのを読んだ事がありますが、あまり大鵬が好きではない感じの記述でした。これは無理もないので、技能派として鳴らした神風が型を持たない力士(半端相撲といい、こういう力士は大関横綱にはならないものとされていました)に好意を持つわけにはいかないのでしょうね。でも横綱になり、一門の後輩ではあり、ヤンワリと表現するしかないというところだったのでしょうね。

で、「型のある相撲」とは何でしょうか。たとえば双葉山の相撲ぶり、若乃花の相撲ぶり、千代の富士の相撲ぶり、あ、柏戸もそうですね。ここに例として上げた人達のように、すぐに得意技、得意な四つが浮かんで来る相撲をいいます。押し相撲の人は、みんな型がありますね。このように、型という物は相撲の定石みたいな物で、攻め方の手順まで含めた、その力士に一番合った相撲のとり方をいいます。ところが大鵬にはこれがありません(と見えるのです)。必殺の上手投げとか、見事な右四つとか、そう言った物がありません。あるのは差し身のよさ、動きの早さ、そして旺盛な研究心、といったところです。以前から、こういう取り口の力士はいましたが、みんな関脇くらいの、しかも小兵の力士達でした。それを大型力士である大鵬がとったのですから、これは批判が強くてあたりまえでしょう。

この批判をかわしたのが二所ノ関親方の「型のないのが大鵬の型」という理論づけでしょう。この親方は頭のいい人で、大鵬が萎縮しそうになると、うまくひき立てて行ったものです。このときも相撲ぶりに対する、かなり根本的な批判を見事に封じ込めてしまいました。理論の中心は「水は容器によってさまざまに形を変えるが、水であるという事に変わりはない。大鵬の相撲もそうだ。相手よって取り口が変わっているが、それは大鵬がどんな事でもできるからである。相手に応じ、相手の弱点をうまくせめているのだから、これは立派な相撲のとり方だ」といったものでした。この理論づけは、大鵬の相撲にはぴったりでした。後年になって大鵬は「自分は状況に応じてどんな相撲でも取れる。この場所どんな相撲になるかは、本場所が始まって見ないと自分でも判らない。自分でも楽しみにしている。」といい切るようになりました。親方の理論づけがよほど力になったのでしょうね。

この大鵬の相撲が、型をいかした柏戸の相撲と正反対なのは、「この二人、どこまで対照的なのだろう」とこちらまでおもしろくなってしまいます。

大鵬には、欠点がいくつかあります。そのうちの大きい物に、「上体がそり返ったら残れない」というのがあります。下半身が弱いというわけではないのですが、いつも上体が「くの字型」になっていないと残れないのです。うっちゃりがなかったのはこのためなのですが、体質的なものなのでやむを得ないですね。大鵬はこの「くの字型」を若い頃は大変気にしていました。なにせこの形だと、「出っ尻」となるのでスタイルが悪くなるのですね。大鵬はそれを気にしてなおすようにしたのですが、そうしたら相撲が取れない。そこで親方は「大鵬絶対不敗のくの字型」なんていう事をいいだして大鵬を納得させました(親方も大変ですね)。大鵬が押しに弱かったのは、上体をおこされると相撲にならなかった事が響いています。それを補っていたのが、動きです。足の動きが軽快なのが大鵬の特徴で、これも大力士型とは言えないですね。

大鵬は四つになると意外なほど芸がありません。あれほどの力士が四つ相撲が苦手だったというのは驚きますね。しかし彼の相撲の根本は、動きの中に勝機を見出すところにあったわけですから、これはこれでいいのでしょうね。結局大鵬の相撲はこんな事になるかと思います。

  1. 全体的に相撲の細かい技術のすべてを駆使する。
  2. できるだけ動きがとまらないようにする。
  3. 上体をそりかえらせないようにする。
  4. 相手力士をよく研究し、その得意わざを封じてしまう。
つきつめていえば、こんな感じですね。でも1.は大鵬の相撲の根本的な事で、例えば「すくい投げ」なんかはただ差し手を返すだけの事だったのです。でもあの太い腕を返されたらそれだけで相手は上体が浮きますね。それでこの投げが決まったわけです。この事の前提には「腕をきちんと返す」という基本があるわけです。ですから「大鵬には型がない」のではなく「小さな型を組み合わせて相撲をとった」という事が言えると思います。

こんな相撲で、誰かを思い出しませんか? そう貴ノ花の相撲ですね。初代の貴ノ花の相撲がそうでしたが、二代目のほうも同様ですね。「型がない」という印象を与えますが、実は基本的な細かい技術を組み合わせて相撲をとっているわけです。差し手を返し、右から強烈にせめる、突っ張りにはうまくあてがって防戦する、といった点が目立ちますが、これらはみんな基本的な技ですね。

基本的な技を組み合わせているのでなんとなく勝っているような印象を与えますが、実はそうではなくて、豊富な稽古よって磨きあげられた基本的な技・動きが主体となっているわけです。

こういう相撲はこれまでの考え方からすると、「型がない」ということになります。また、大型力士・上位力士のとり方ではないと言うことにもなります。しかし、相撲の基本的な技をいくつか組み合わせて行く取り方も当然ありうるわけで、大鵬は大型力士でありながらそういう相撲をとった最初の力士であったと言う事も言えます。

しかしこんな取り方を「型がない」というのは少し酷だと思います。こういう取り方はむしろ決まった取り口がないだけなのだと言うべきでしょう。これはどんな状況にでも対応できる特徴があります。しかしその反面、決まった手順と言うものがないので、策におぼれてしまうとか、自分が主動権をとりにくいという欠点をも持っています。これは安定性という点に支障が出ますので、批判されてもやむを得ないところがあります。

こんな大鵬の相撲と似たような取り口を現在示している二代目貴ノ花の今後の動きが注目されますね。

さて、全盛期には人気のなかった大鵬ですが、上昇期には爆発的な人気がありました。現在の貴ノ花人気と同様の事がおこりました。「アイドルとしての力士」の最初の人が大鵬でした。これまでの人気とは異質のものがありました。二所ノ関親方は、こんな人気とも格闘しなければならなくなりました。マスコミの攻勢をいかに防戦して大鵬に稽古時間を作るかに苦心する事になりました。そのため、夫婦して随分悪者にされていました。でも親方夫婦の存在があったからこそ、大鵬は稽古に集中できたわけで、師弟一体という感じがしました。あ、これは柏戸と伊勢ノ海親方との関係とも同じですね。

大鵬で感心した事は、「負けろ、という声がかかるようになりたい」と言っていた事ですね。この言葉は、休場が続いた頃の言葉です。弱い力士に「負けろ」なんていう声がかかるわけはないのですから、これは大鵬が強くて負けない事の表現でもあるわけです。

ですから第一人者として君臨していた大鵬にとっては、こういう掛け声は自分が強いという事の確認でもあったわけです。横綱として相撲界の頂点に立つものは憎まれるくらい強くなくては責任を果たせない、という考えがここにあらわれていますね。たしかこの時の大鵬は夫人と二人で山籠りをして再起を期していたと思います。こういう考え方ができた人であったために、長期にわたって横綱として君臨できたのでしょうね。同じ声をかけられて「まじめにやっているのに、なんて失礼な」と憤慨していた某横綱とは大違いですね。もっとも親方としては失格横綱の方がたくさん幕内力士を育てています。力士としての資質と親方としての資質とにはあんまり関係が無いのでしょうかね。

あ、それと現在決まり手や勝ち星などの記録が話題に登りますが、これも大鵬以後に注目を浴びるようになったものです。そんな点からいうと、現在の相撲界のあり方には、大鵬の影響が大きいともいえます。

30回目の優勝を期に一代年寄「大鵬」を贈られました。このとき、伝達式が国技館の土俵上で行われたのですが、式が始まるまで随分と時間がかかりました。これはなにせ相撲協会始まって以来の儀式ですので(双葉山にも贈られなかったのですよ)、そのとき協会に在籍していた年寄全員が列席したいと強く要望したので、全員が紋付き袴を着るため開始が遅れたといわれています。それほどの大事件だったわけですね。

こんな大鵬ですが、引退の時には相撲を取ってやめるつもりでいました。その日の一番を取り終えてから引退届けを協会に提出するつもりでいたところ、親方がその日の午前中に届けを提出してしまった事から、ちょっとしたトラブルがおこりました。大鵬は引退届けが提出されてしまった事を知らずにいたため、その日の福の花との一番をとるつもりで記者団に語っていたのですが、それが引退届けを提出後に土俵に上がると言っている形になってしまったわけです。

これが批判される事になりました。「大横綱の引退らしくない、自分勝手ないい分だ。かりに相撲を取ったとして、既に引退した力士は土俵に上がれないという規則に反するばかりでなく、相手の福の花の星はどう扱うのか」というのがその内容です。横綱の引退の時というのは、表面に出る出ないはともかくトラブルがおこりがちなのですが、大鵬の場合はとくに目立ってしまったようです。

引退後は大鵬部屋をおこし、幕内力士も育てました。巨砲が大関寸前まで行ったとき随分話題となりました。

大鵬が引退後、NHKのゲストに最初に出た時、向正面がその席だったのですが、通路から席に向かう大鵬の姿を見た人達の中から拍手がおこり、どんどん大きくなって行ったシーンを思い出します。ひょっとしたら、その日一番大きな拍手だったかもしれません。印象的でした。

柏戸と一緒に、審判部長(副部長だったかな?)になったのですが、ほどなく高血圧で倒れてしまいました。これは大事件で、NHKが臨時ニュースを流しました。大鵬自身にとっても、再起不能かとも思われた事件でした。しかし大事にはいたらず、リハビリに励むことになりました。このリハビリがまた話題を呼びました。

何しろ、脇目もふらずという調子で、注目をあびる存在だという事を全く念頭におかない様子だったという事です。これは「大鵬は負けてはいけない、絶対に再起する」という固い決意があったからです。大鵬夫人があとで「自分の主人ですけれど、尊敬しました」というような事を言っていました。これも大鵬としては自分が再起する事で、同じ病気にかかっている人に勇気を与える事にもなる、という考えもあったようです。

立派に再起し、だいぶスリムになった大鵬はまた部屋の運営に、協会の仕事にと活動を始めます。残念な事は、闘病生活の間に弟子の数が減ってしまった事ですね。これはやむを得ない事でしょうかね。

それと残念な事がもう一つ。二所ノ関部屋の継承問題です。この時、押尾川、金剛と争う形になり、大鵬の進退にやや批判がありました。ついには押尾川の反乱という事件に発展し、天龍が廃業するにことになってしまいました。

現在は地方場所担当の理事という事になっていますが、柏戸が審判部長として脚光を浴びているのに比べると、地味な感じです。理事長になる可能性もないようなので、なんとなく不遇という印象があります。現役時の存在感に比べ、現在のところは影が薄くなっているといえます。でもまだまだ若いのですから、これからの活躍に期待したいですね。


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