高見山大五郎(たかみやま だいごろう)

外国出身で最初に幕内力士になった人として、いろいろな面で話題になりましたね。

高見山について述べる事はいろいろありますが、特筆すべきは幕内在位場所数ですね。なんと97場所なのです。それも休場なしで土俵をつとめていたのです。高見山が休場したのは引退直前だけでした。目立たない事ですが、16年間も幕内力士として活躍した訳ですから、現役力士としての高見山がどんなに体調を整えていたのか改めて判ると共に、その努力に頭が下がる思いがしますね。

高見山は下半身が弱いとよく言われていましたが、それには理由がありました。確か交通事故で怪我をしていたはずです。その影響があって、足腰に弱点があった、といいます。この弱点はフットボールにもあらわれていたそうです。こういった弱点を持ちながら、外国人のいない世界に飛び込んであれだけの成績をおさめた訳ですから、高見山の事をパイオニアと呼んでもいいでしょうね。そしてこの高見山に続くようにハワイ出身力士が出現するようになった訳ですから、そういった面での波及効果もあった事になりますね。

高見山の相撲は、結局出足でした。出足で圧倒する、高砂部屋伝統の攻撃相撲でした。四つになると、ちょっと苦しくなりました。でも鮮やかに投げられるので、これも高見山の見せ場となっていました。とにかく粘る事ができない人なので、転ぶ時は派手でした。玉ノ海さんだったか「ああいう具合にあっけなく転ぶと、怪我がなくていいね」と言っていたのがおかしいですね。誉めているのかけなしているのか判らないですね。でも、この怪我をしなかった、というのが高見山の財産でした。これがために長い期間に渡って幕内にいられた訳ですからね。

高見山と言うと、ひときわ大きな体格が印象にありますが、入幕した頃はあんなに大きな体格ではありませんでした。もちろん小さくはなかったですが、もっとホッソリしていました。それが幕内に定着した頃からグングン大きくなって、ああいうみごとな体になったわけなのです。

高見山は外国人であるという事で、いろいろな事があったようです。あの佐田の山の引退理由の一つに高見山に負けた、というのがあったように思います。これは結局は学生出身の豊山にもあった事のようですが、やはり外国人という事で、目立ってしまっていたようです。下の時分にもいろいろの事があったようで、山の手線に一人で乗って何周もしていた事もあったといいます。パスポートは親方に預けてあり、ハワイには帰れないのですから、そんな事をするしかなかったのでしょうね。

個人的にはいろいろあったにせよ、力士としての高見山は非常に幸運でした。それは同じ時期に同じ部屋に前の山という力士がいた事、さらに北の富士が一門に加わって来た事、この2点です。体の大きな高見山の相手をできる人というのは、やはり大型でなければなりません。この点から言っても、大型の力士が一門にいたというのは稽古が十分にできる事ですから、本当に恵まれていました。しかも同僚には稽古熱心な富士櫻もいました。こういった条件を生かして十分に稽古をしたからこそ、息の長い活躍ができたといえましょう。

ところで相撲の人気というものには波があります。北玉時代が急に終ってしまった後の相撲界というのは、ちょっと下降線をたどった時期でした。その頃からでしょうか、大相撲の人気を本当に支えているのは高見山と貴ノ花だ、と言われたものでした。高見山の大きな体格と明るい性格、貴ノ花の小柄で真剣な相撲ぶり、それがなんとなく好対照となり、二人の相撲はいつも観客を沸かせたものでした。あの貴ノ花の名言「髷がなければ相撲が取れない」というのは高見山戦の時に出た言葉でした。幕内で一番大きな力士と一番小さな力士の対戦という事になるのですが、ひょっとしたら迫力といい、おもしろさといい、幕内随一の好取り組みだったかもしれませんね。それほど注目を集めていたのでした。

高見山の土俵人生のハイライトは何と言っても幕内優勝でしょうね。外国人力士が始めて優勝した訳ですから、その時の騒ぎと言ったらなかったですね。これは同時に高砂部屋にとっても久しぶりの幕内優勝でした。千秋楽の土俵上で、在日アメリカ大使が当時のニクソン大統領からの祝電を読みあげると思わず涙ぐんでいたのが印象的でしたね。この時が表彰式に英語が流れた最初だとおもいます。高見山自身としても何も知らない世界に飛び込んで最高優勝までしたのですから、言葉では言い現わせないものがあったでしょうね。

優勝の時の高見山の相撲は本当に申し分のないものでした。ですから気の早い人は「さあ大関昇進だ」と張り切ったものでした。ところが残念な事に、次の場所は成績が上がらず、大関昇進はなりませんでした。結果的にこれが高見山にとっては唯一の大関昇進のチャンスでした。もし実現していれば外国人で最初の大関となったわけなのですが、それはかないませんでした。

さてパイオニアとしての高見山のチャレンジはまだ続きます。高見山が親方として協会に残りたいという意向を持っている事を知った相撲協会は、あわてて親方になる条件を変更し、「日本国籍を持つ事」という限定をつけました。そこで高見山は日本国籍を取得し、親方になる資格を手に入れる事ができました。高見山の本名が変っているのはそのためです。ま、部屋の親方というのはいわば経営者ですから、日本語な不得手な高見山にハンディがあるのは確かです。しかし、こういうことは補佐する人がいれば片付くことですから、外国人への差別と言われてもしかたがないでしょうね。

怪我をしない高見山もついに怪我をする時が来ました。このため初めての休場や確か十両陥落もあったとおもいます。必死で幕内に復帰した高見山ですが、このころには足が動かなくなっていて、相撲が取れなくなっていました。常々「40歳までとる」と言っていた高見山にもその最後の時が来ました。こうして高見山は長い現役生活を終える事になりました。おもしろいのは、一緒に稽古に励んだ富士櫻も高見山と同じ頃に怪我をして、同じ頃に引退している事です。稽古相手同士、本当に仲が良いなと感心したものでした。

引退後は、東関部屋をおこしました。早々と横綱曙を出しているところをみると、弟子を育てる事がうまいのでしょうね。これからもいい力士を出して欲しいですね。


目次へ