貴ノ花利彰(たかのはな としあき)

力士が場所中に引退する事は、よくある事です。ところがそれを伝えるアナウンサーが途中で泣き出してしまって放送ができなくなる、というのはめったに無い事です。そのめったにない事がおこったのが貴ノ花の引退の時です。この時のアナウンサーは杉山邦博氏だったですが、このあと「泣きの杉山」として有名になりました。この時、貴ノ花の引退を伝える放送をしていた杉山氏は途中で急に「玉ノ海さん、お願いします」と言ったきり、しばし沈黙でした。私はこの時どうして急に黙ったのか解らなかったのですが、あとで理由が解りました。アナウンサーが泣き出して仕事ができなくなるほどの大事件だったわけです。当時の貴ノ花の存在の大きさがこれで解るような気がします。

それにしても幸運だったのは、この日の解説者があの玉ノ海さんだった事です。貴ノ花の事を「下半身にもう一つの生命がある。」と評したのは、実はこの人でした。その玉ノ海さんが、杉山アナウンサーの後を引き継いで貴ノ花を送る言葉を続けました。放送としてはまずい場面なのかもしれませんが、アナウンサーの言葉よりも玉ノ海さんの言葉の方が貴ノ花の引退を伝えるにはふさわしいような気が今でもしています。

さて貴ノ花です。デビュー前から注目され、引退までそれが続いたという点でこの人は大きなプレッシャーの中で現役生活を送った事になります。それが引退の時の「相撲を取っていて楽しい事は何もなかった」という言葉に良くあらわれているように思います。

貴ノ花の初土俵の時の騒ぎというものは、これまでになかったものがありました。それというのも、貴ノ花の背景がただごとではなかったからです。なんと言っても戦後の名横綱で人気の高かった若乃花の実弟であったからです。しかも容貌雰囲気が良く似ています。これでは注目するなというのが無理ですね。ただ貴ノ花にとってかわいそうだと思うのは(下のころは花田でとっていましたが)いつも「若乃花」と声がかかる事です。自分の四股名でない声がかかるというのは、人気がいくらあっても全部が自分の人気ではなく、いわば人の人気におぶさっている事になるわけで、これは当人にとっては堪らない事だったでしょう。こうしていやでも注目を集める形で相撲界に入ったわけです。貴ノ花のえらいところは、こういう無茶区茶な人気や注目に負けずに、当時の最年少昇進記録のいくつかを更新しつつ昇進して行った事です。貴ノ花自身にも非凡なところがあったわけです。ところがこれがまた若乃花人気に火をつける形となり、貴ノ花は兄若乃花の存在をいつも意識せざるを得ない事になるわけです。

「出る杭は打たれる」という言葉がありますが、貴ノ花の現役生活中はまさにこれでした。貴ノ花が内臓が弱かったのは、新弟子時分に無理に酒を飲まされたためだという説がありますが、真偽のほどはともかく、なんとなく納得させられるようなものがあります。何しろ兄は部屋の親方なのですから。師匠への不満のはけぐちとしては格好の相手ですね。こんな経験が今の部屋経営に生きているといいのですがね。

中学時代に水泳をやっていたのはもう有名ですが、東京オリンピックの時の聖火リレーに参加している事は意外と知られていないようですね。聖火を持って走っている写真もありますよ。

幕内に上がった頃はまだ体ができていない事もあって、一度十両に落ちました。この時に四股名を「花田」から「貴ノ花」に変えます。この四股名がまた話題となりました。気の早い人は「大関か横綱になったらきっと若乃花にするつもりなんだ」といって貴ノ花の昇進を期待し始めました。

貴ノ花の人気は、凄まじいものがありましたが、もちろんそれは兄若乃花人気が移行したものだけではありませんでした。最大の理由は貴ノ花自身の相撲ぶりです。「下半身にもう一つの生命が宿っている」と言われた柔軟なバネをいかした正攻法の相撲ぶりは、見ている人に感銘を与えました。これこそが貴ノ花人気のゆえんでしょう。

とにかくどんな相手でも立ち上がってから一度は攻勢をしのいで、自分の体勢に持っていこうというのですから、ハラハラドキドキの連続です。こういう相撲というのは見ている人をひきつけますね。ですから貴ノ花の相撲には「ハラハラ相撲」、「サーカス相撲」という表現がぴったりでした。

ところで能見正比古が貴ノ花の相撲を「くっつき相撲」と表したのは実にうまい表現ですね。貴ノ花の典型的な相撲は、立ち上がってから相手とつねに接触している、という取り口でした。押すというには四つに近く、四つというにはがっぷりにはならず、出足も投げもない、そういう相撲でした。要するに柔軟な足腰を生かして粘りながら、おっつけ・絞りを駆使して徐々に相手を追い詰め、寄り切りや吊り出しで勝つ、そんな相撲でした。逆に追いつめられれば土俵際での粘り、うっちゃりがありました。こんな相撲ぶりを表するには、やはり「くっつき相撲」という表現が一番ですね。

ではこの相撲ぶりが貴ノ花が最初から目指していたものかとなると、それはどうも違うようです。便宜的に貴ノ花の相撲を大関時代を関脇時代(もちろん平幕時代を含んでいます)とに分けると、明らかに相撲ぶりに違うところがあります。一番の違いは大関昇進以前の貴ノ花には投げわざがあった事です。師匠二子山は上手投げ、出し投げの名人でしたが、貴ノ花にもこれを伝受しようとしていました。事実本場所の土俵で貴ノ花が見事な出し投げを披露した事があります。最近ではあまり見られない出し投げですが、小兵力士がこの技を使う事によって相撲の幅が広がるので、このころまでには出し投げの名人と言うのがいたものです。貴ノ花の出し投げは柔軟な足腰を生かしたもので、まだ完成されてはいませんでしたがなかなか強烈でした。出し投げを自分のものにしていたならば、貴ノ花はあるいは大関では終らなかったかもしれない、そんな気さえします。とにかく大きな前の山を投げ飛ばしてしまったのですから、威力がありました。

ではなぜ投げ技がなくなってしまったのでしょうか。原因は貴ノ花の怪我にあります。大鵬との一番で左足を怪我した事が原因で、関脇時代の驚異的なバネがなくなってしまった事です。そのために投げ技より前に出る事に専念する事になってしまったわけです。貴ノ花の粘りがどういうものであったかという事を最も良く示しているのは、清國との一番でしょうね。この時、貴ノ花の足を清國がとったのですが、それでも貴ノ花は体勢が崩れませんでした。最終的には貴ノ花が勝ってしまったのです。「足を一本とられれば、馬でもこける」と言った人がいたようですけど、本当に驚きますね。もっとも、清國も足取りなんてやったことがない人なので、貴ノ花の足を取っては見たもののの、途方にくれたというのが真相なのではないかと思っていますけどね。

で、怪我なのですが、不幸中の幸いというべきか大鵬がうまく重心をずらしてくれたので致命的なものにならず現役生活を続ける事ができました。さすが大鵬というべきでしょうね。ただあの驚異的なバネは終に戻りませんでした。これ以後の貴ノ花はこの怪我の影響と、首の故障に悩ませられながらの土俵という事になってしまいました。

貴ノ花の相撲で感心させられるのは、常に真正面から相撲を取った事です。「逃げる」という事をしませんでした。これは貴ノ花のように体重のない力士にとっては非常に辛い取り方です。ではなぜこういう取り方ができたのでしょうか。柔軟なバネが要因である事は事実ですが、その他には貴ノ花の持っていた技術があります。突っ張る相手の腕を下からあてがってその威力を減退させる技術、おっつけて相手の重心を浮かしてしまう技術、こういった技を駆使して、相撲を取っていたわけです。特におっつけは素晴らしい威力を持っていました。全盛時の北の湖をこの技で土俵から持ち上げた事もあります。貴ノ花の相撲の見せ場の一つですね。

大関時代の貴ノ花は、闘志をかき立てるために顔や尻を両手でたたきながら仕切りをしていました。貴ノ花の事を「青白い炎」というようになったのは大関になってからです。人気では一番であるが、実力的にはやや苦しい、そんな大関での相撲ぶりが悲愴なものを感じさせたのでしょうね。同時期にあの輪島がいたのも、いっそうそんな気にさせたでしょうね。同時に大関になったのですが輪島にさっさと抜かれてしまったのですから、ファンは一層の肩入れをしたものでした。

貴ノ花でえらいと思うのは、全盛時代の北の湖をしばしば苦しめていた事です。勝てないながらの、あわやという場面は良くありました。こういった点から、良く大関の責任をはたしているという人もありました。

あまり冗談を言わない人なのですが、高見山との相撲で、髷が砂をはいて負けた時の問答はおかしかったですね。きわどい勝負で、土俵際でもつれたのですが、「髷がなければ勝っていましたね」ときかれたのに「髷がなくては相撲が取れない」と答えたのです。そういえば高見山と貴ノ花の一番は人気もの同士という事もあって、いつも注目を集めていました。呼び物の一つだったように記憶しています。

貴ノ花の一番のハイライトは大阪場所での初優勝でしょうね。強いがゆえに敵役にされてしまっていた北の湖を優勝決定戦で破ったわけなのですが、この時の館内の熱狂ぶりは凄まじかったですね。それと本来はそんな役割ではないのに、春日野理事長が二子山親方に優勝旗を手渡させたのは、すばらしい演出でしたね。今にも涙がこぼれそうな様子で、真赤な顔をしていた二子山親方が印象的でした。

この優勝で「さあ横綱」となったのですが、次の場所は散々でそれも夢となってしまいました。もうだめかと思ったら、その後2度目の優勝をして再度横綱への夢が膨らみました。ところがこの場所後もだめで、ついに横綱昇進ははたせませんでした。この2度の優勝の時に好調が持続していれば、昇進の可能性もあっただけに、ファンを悔しがらせました。

怪我や病気と戦いつつ、現役時代を続けたわけですが、次の時代を背負うような小兵力士の台頭を見届けてから、引退をしました。貴ノ花が引退すると同時に千代の富士が急上昇し、ついには横綱にまでかけ上がってしまいました。これは貴ノ花から千代の富士へバトンが手渡されたような印象を受けたものでした。

完全燃焼してからの引退でしたので、残念な気持ちよりは「ご苦労さん」と言いたい感じでした。引退後は独立して藤島部屋を設立しました。部屋経営は順調で、安藝ノ島、貴闘力、若ノ花、貴ノ花、貴ノ浪といった力士を力士を育てています。とにかく自分の子供を二人入門させて、二人とも大関にしてしまったのですから、たいしたものですね。更に同時に3人の大関を抱える事になったのですから、かつてない事といえましょう。

なお実兄の二子山の定年に伴い、二子山部屋を吸収して、自分も二子山を名乗りました。横綱確実と言われる貴ノ浪がいる事もあり、今後の経営が注目されますね。ただ最近あまり香ばしくない話も聞きますので、それが心配でもあります。


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