玉乃海代太郎(たまのうみ だいたろう)

この人にはびっくりするようなエピソードがあります。経歴から言うと、初土俵から十両昇進まで、14年かかっているのです。これは出世が遅かったからではなくて、相撲界を離れていた事があるからです。

初土俵の時期から言うと、解説で有名になった神風さんと同じ頃なのですが、活動の時期は全くずれてしまっています。これは高齢まで相撲を取ったと言うことなのですが、長期間のブランクを跳ね飛ばすほどの持久力にまずびっくりしますね。それにこの人、戦前派の力士と言うべきか、戦後派の力士と言うべきか迷いますね、ほんと・・・。

まずブランクの原因から話しましょうか。とにかくすごい話なのです。1930年代には大相撲の巡業は海を渡って中国まで行っていました。これは日本軍の占領地を回っていたのですが、玉乃海はまだ福住といっていた時分(幕下か三段目の頃です)に上海の巡業に行った時に町で喧嘩を始めてしまいました。そしてそれを止めに入った日本の憲兵をも殴ってしまいました。当時鼻息の荒かった憲兵を殴ってしまったのですから、もう相撲界にはいられません。陸軍は玉乃海を軍属として南方の激戦地を選んで再三送り出しました。玉乃海を目の敵にしていたわけですね。

ところが奇跡的に死ななかったのですが、マラリヤに罹ったりして痩せ衰えてしまいました。そんな体でやっと日本に帰って来たのですが、大相撲に復帰できる体力があるとは思えなかったのでしょう、出身地の大分に帰ってしまいました。そこで暫くアマチュア相撲の指導をしたりしていたのですが、体力が回復すると、やはり大相撲へ復帰したくなりました。それで二所ノ関部屋に連絡を取ろうとしていると、当時の二所ノ関親方(解説の玉ノ海さんですが)がやっぱり大分に帰ってしまった玉乃海を復帰させようと思っていて連絡を取り、これで玉乃海は復帰がかなったわけです。

あまりにも長い空白のある復帰だったので、神風さんなんかは「おまえ、わしがやめるころになって戻って来たのかい」とか言って歓迎したのだそうです。

復帰した相撲界ではあっという間に出世して、幕内に昇進しました。29歳になっての新入幕ですから、常識的にはあまり多くは望めません。ところがこの人は違いました。「荒法師」の異名とおりの大活躍をし、あわや大関昇進か、というところまで行ったのですから、驚きですね。

相撲ぶりは豪快というかむしろ荒っぽいほうでした。回しを持ってふり回してしまう、そんな感じの大きな相撲でしたから、意外な事にあの栃錦が大の苦手にしていました。名人肌の力士はおおまかな、荒っぽい相撲に弱いところがある、とはよく言われますが、それの典型的な例ですね。

常に幕内上位にあって、好成績を続けたのですが、さあ大関 !という場所を病気で休場してそれもフイになってしまいました。休場あけで出場した場所が、最初の九州場所でした。この最初の九州場所に、地元出身の玉乃海は何と黄金の締め込みをして土俵に上がりました。これにはみんながびっくりしましたが、それよりびっくりしたのは玉乃海の相撲です。初日からきれいに白星を並べて、あれよあれよというまに全勝優勝してしまったのです。本人は半分ヤケクソで取ったらしいのですが、それにしても鮮やかでしたね。

これ以後、長く幕内上位で活躍するのですが、ついに大関にはなれませんでした。実力は十分と皆が認めていたのですが、惜い事に大事な時に病気が出てしまい、それが原因で昇進を逃してしまいました。本当に残念でしたね。

でもドラマチックな経歴と、豪快な相撲ぶりとで人気がありました。本当にいい力士でしたね。

引退後は片男波を襲名しました。ところが部屋の独立で二所ノ関親方と随分もめたりし、この人のドラマはまだ終りません。

やっと独立した後、部屋からは横綱の玉の海が出ました。「たまのうみ」としては三代目となります。ところが横綱としてやっと盛りにかかったばかりの頃に現役のまま死亡してしまいました。大事な弟子を失った玉乃海(片男波)の落胆は言うまでもありませんでした。でもその後玉ノ富士という強い力士を出しているのですから、弟子の養成のうまかった人といえるかもしれません。

この人の一番残念な事は、酒乱だった事ですね。片男波親方となった後でも時々新聞に酒の上での乱暴記事が出た事があります。若い頃に上海で憲兵を殴ったのも同様なのでしょう。これさえなかったら、もっと多くの幕内力士を育て上げていたかもしれませんね。酒が入っていない時の玉乃海はよくものの解る人だったのだそうですがねぇ・・・。

片男波部屋独立の時にはトラブルがあったのですが、自分の部屋の継承はいたってスムーズでした。関脇まで上がり、大関の声もかかった玉ノ富士を後継者と定め、それから亡くなりました。この辺、なかなか見事でしたね。


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