玉の海正洋(たまのうみ まさひろ)

大関までは玉の島の四股名でとっていました。横綱昇進の時に玉の海となったわけです。師匠も玉乃海でした。「たまのうみ」としては三代目となります。この「たまのうみ」という四股名を名乗った力士には共通した点があります。それは「強い印象を残しているのだが、自分の持つすべてを出し切れなかった残念さを伴っている」という点です。

初代は大関の実力十分で、当然昇進するだろうと思われていたのですが、師匠の急死によって部屋の経営をしなくてはならず、そのためにチャンスを逃してしまいました。

2代目は、戦争を挟む期間の長い間の中断があったために戦後相撲界に復帰した時は力士としてはかなり高齢になっていました。そのため十分な実力がありながらやはり大関昇進をはたす事ができませんでした。初代には「怪力」、2代目には「荒法師」というニックネームがついていました。初代は解説で有名ですね。

で、この玉の海(3代目ですが)もその例にもれずというか、最盛期の現役中に急死するという、最も悲劇的な力士となってしまいました。本当に「残念」という言葉では言いつくせないものを感じます。

玉の海は小兵力士でした。あまり素質に恵まれていないように思えるのですが、実は大きな財産をいくつか持っていました。それは広い肩幅、柔軟な足腰、研究心、と言ったものです。相撲は四つ相撲でした。戦後にあらわれた唯一の本格的な四つ相撲という人もいたように思いますが、四つ相撲のおもしろさを本当に体現していたと思います。

小兵でも変化はせず、つり、寄りを主体としていました。正攻法であったため、体重が増えない間は勝ち星が上がりませんでした。ここで偉いと思うのは、自分の目指す相撲を決して変えようとしなかった事です。これが横綱になってからの素晴らしい成績として結実したわけです。

1965(昭和40)年から部屋別総当制が実施されました。この対戦方法は、現在では抵抗なく受け入れられています。しかしそれ以前の系統別総当制の時代に育った力士にとって、部屋別総当制は自分の兄弟弟子と対戦するような気がして、とてもやりにくかったものでした。また見ている方も果たしてどんな結果を生むのか注目していました。「はたして部屋別総当制は定着するのか」という疑問がありました。この疑問を完全に払拭してしまったのが玉の海でした。

初日に大鵬と対戦した玉の海は劇闘の末、大鵬を内掛で倒しました。鮮やかな勝利でしたが、同時に部屋別総当制が好取り組みを増やすものだという事も認識させました。現在の取り組み方法が定着したのは玉の海のこの一番の影響が大きかったと思います。こんなところに、真剣に相撲にとりくんでいた玉の海の姿勢がよく出ています。

大鵬に勝った玉の海は、上位力士として定着していきます。ところがそれ以後の玉の海の歩みは決して順調ではありません。それは「壁」の存在でした。

玉の海にとっての最大の壁は大鵬でした。これは同時代の力士のだれもがそうでした。この「大鵬の壁をいかに突き破るか」が玉の海が上位力士として活躍する上での課題でした。

玉の海の苦闘ぶりを明確に現わしているのは、横綱昇進までの道のりです。優勝もし、準優勝もしているのにどうしても横綱になれませんでした。その理由は「大鵬に負けている」という事でした。つまり勝ち星が一つ足りない、というわけなのです。横綱審議委員会の議題にとりあげられながら、拒否される事が続きました。たしか4回くらいあったと思います。

このころが一番苦しい時期でした。玉の海はその間絶望した事もあったでしょうが、稽古にはげみ、四つ相撲の完成に取り組んでいました。そしてそれが報われる時が来るわけです。

当時大関は4人いました。その中で一番新しく大関になった清國が新大関で優勝してしまいました。次の横綱候補としての強力なデビューでした。これに刺激されたのが大関の中では古くなっていた北の富士と玉の海でした。この二人はそれから猛烈な稽古にはげむ事になりました。清國が横綱のかかった場所で故障して昇進できなくなった後、横綱になるべき力士は北の富士と玉の海の二人しかいません。こうして二人のマッチレースが展開して行きました。

この頃、玉の海は四つ相撲の型をほぼ完成させていました。広い肩幅を有効に使った四つ相撲は見ていてわくわくするものがありました。安定した下半身が生み出す安定感は抜群でした。しかしここでも玉の海は残念な思いをしなければなりませんでした。それは北の富士をどうしても追いぬけなかった事です。この二人の対戦は右と左のけんか四つでした。北の富士の方が差し身がいいので、いつも左四つになり右四つの玉の海は不利になっていました。それが横綱昇進の際の成績にもあらわれていて、勝ち星は北の富士の方が上でした。

この事実は玉の海に「付録で横綱になった」というふうに思わせました。そのため沈んでいた玉の海は横綱審議委員会の意見をきいて気分を一新しました。この時の横綱審議委員会は玉の海の横綱昇進について「本格的な四つ相撲をとる玉の海の将来性を評価して横綱に推薦する」というものでした。これは現在の成績は北の富士に劣っているが将来的には玉の海の方が横綱として十分活躍できる、と見ている事を示しています。これをきいた玉の海は「横綱審議委員の先生というのは偉いのだな」と感心すると同時に、「付録で横綱になったのではない」という自信を植え付ける事にもなりました。横綱として抜群の成績をあげ続けた玉の海を生んだのは横綱審議委員の見解だったわけです。このころの審議委員は、見識があったといえましょう。

ところで横綱伝達式の時の事なのですが、普通この時のやりとりは定式化されています。横綱になる力士は「謹んでお受けいたします」と答えるのですが、横綱になったうれしさか玉の海は「よろこんでお受けいたします」というような事を言ってしまい、あとで苦笑していました。待望の横綱昇進を迎えた心のはずみ具合を正直に示している玉の海の人柄がしのばれますね。

そうでした、明治神宮の伝達式の後、国技館の土俵上で玉の海が土俵入りをした事がありました。福祉相撲か慈善相撲かの時ですが、覚えたての不知火型の土俵入りを本当に嬉しそうにしていたのが印象的でした。

玉の海は、土俵入りにも真剣にとり組みました。「どういう土俵入りがいい土俵入りなのか」ということをいろいろな人に聞き、それをとり入れました。ですから、最初のころは一場所ごとに土俵入りが変化していました。最終的には(早すぎるのだが)彼なりの美しい型を作りあげていました。とにかく四股がきれいだったので、きちんとした横綱土俵入りを見せてくれました。

このひとは大関迄は玉の島で取っていました。それを改名したわけです。そんな事から解説の玉の海さんも随分肩いれしていました。もうかわいくてしかたがない、といった様子でした。北出アナはそんな玉ノ海さんと珍問答をやったりしました。

その1
北「土俵上の玉の海が三人いる玉の海の中では私が一番偉いと言ってましたよ」
玉「うーん、そうだねぇ」
北「一言もないですね」
玉「うん、一言もない。こっちは関脇だからねぇ」

その2
北「玉の海がちょっと具合が悪いんですよ」
玉「けがでもしたのかい」
北「いえ痛風が出たんですって。これでまた親方(解説の玉ノ海のこと)に似ちゃったといってました」
玉「何もそんなところまで似なくてもいい。もっといいところが似て欲しい」

といった具合で、至極御機嫌でした。

本題に戻って、玉の海の成績の内で注目すべきは、その安定感です。1場所を例外として、いつも13勝前後の勝ち星をあげていました。短い間だったとはいえ、強さ・安定感ともに十分に横綱の責任をはたしていました。

私にとって最も印象的な相撲は(いつの場所かさだかでないのですが、大阪場所だったと思います)清國との一番です。このとき清國は十分の体勢になって玉の海をせめました。相手十分になられた玉の海は、相手がこの場所調子のよかった清國なので、すぐに負けるかと思われたのですが、ここから粘ったのです。清國が何度も寄ろうとしているのに、その度に玉の海ははねかえしてしまいました。こうしてあわや水入りになろうかという一番になってしまいました。この時、不十分になっても相手の攻勢をしのいで、ひょっとしたら勝つのではないか、と思わせた玉の海は本当に強いと思います。

北の富士と二人で作った3場所連続全勝優勝という記録も忘れられないですね。北の富士・玉の海・北の富士という順番で優勝したのです。おもしろいのは、玉の海は例によって1つか2つしか負けなかったのに、北の富士が全勝・8勝・全勝という類のない星取りだった事です。北の富士が2度目の全勝をした後、このころ解説をしていた二子山(元若乃花)が「こういう凹凸は困るねぇ」と嘆いていたのが何とも愉快でした。

これからどのような大横綱になるのか、あの四つ相撲の型が完成したらどんな相撲を見せてくれるのだろうか。そんな期待を抱かせていたのですが、その途上で急死してしまったことは残念でなりません。もし健在であったならば、輪島・貴ノ花といった力士の厚い壁となってこの二人の昇進があの様にスムーズには行かなかったに違いありません。それに玉の海の生存中に立合がものすごく良くなり、なるほど立合というのは大事なものだし、立ち上がる前から相撲の勝負は始まっているのだな、と実感させてくれました。

そうでした。玉の海の追悼文に誰かが「面影はあの花道のあのあたり」という句を引用していたのが忘れられませんね。もともとは力士の事を詠んだ句ではないようなのですが、本当にぴったりときました。

惜しい力士でした。


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