栃赤城敬典(とちあかぎ たかのり)

関脇に居座って、大技を連発して上位陣を翻弄し「サーカス相撲」の名を欲しいままにしていた時には、あわや大関昇進か、という勢いがありました。相撲ぶりは粘っこく、とんでもない体勢で、とんでもない技を出す意外性のあるものでした。ですから「サーカス相撲」の他に「技の博覧会」ともいわれました。

とにかく見ていておもしろく、上位陣相手に反り技をやったりしたのは、ひょっとしたら師匠の栃錦以来かもしれませんね。入幕してすぐ三役に定着し、アレヨアレヨという間に好成績をあげていた頃は、大関がほんのすぐ先まで来ているようにいわれました。しかし、中には「栃赤城の技は、攻め込まれて出すものが多く、本質的に攻撃相撲ではない。これでは怪我をする可能性があり、大関というには少し問題がある」という声もありました。そして結果的にはこの声のいう通りになってしまいました。残念な事に怪我をし、そのまま勢いを失っていきました。

勢いのあった頃の栃赤城の相撲は同じ「サーカス相撲」といっても貴ノ花のハラハラドキドキとは全然違う、スカッとするサーカスでした。とにかくおもしろかったですね。土俵際につまって「危ない!」と思った時に、反りが出たり、掛け投げが出たり、本当に土俵に詰まってからが見せ場でした。本当に、度胸がいいな、という相撲でした。これでもう少し攻め込む場面が多ければ、本当に大関に昇進したかもしれませんね。それくらいの勢いがありました。

ところで、栃赤城を見直したのは、勢いを失ってからの姿です。結局相撲ぶりは変わりませんでしたが、「なんとかしてもう一度幕内上位に戻るのだ」と懸命の努力を始めたのです。ですから番付が徐々に下がり出したのに、土俵をあきらめませんでした。この「徐々に下がる」というのが栃赤城で、最後まで粘りを失わなかったわけですね。

その栃赤城も、力の低下に伴い幕下で相撲をとるようになりました。ちょっと考えれば、「もうやめればいいのに」という事になるのですが、そうではありませんでした。どうやら師匠の栃錦にもう一度幕内上位に復活した姿を見てもらおう、そういう気持ちがあったようですね。そういう事で、晩年病気がちになった師匠を励まそう、また師匠の恩に報いたい、そう思っていたようですね。ですから栃錦が亡くなってすぐ、栃赤城は廃業しました。廃業後は郷里へ帰り、現在は家業を継いでいるという事です。


目次へ