栃東知頼(とちあずま ともより)

技能派の力士でしたね。解説の玉ノ海さんが「足の配りが実にいい」といつも誉めていました。出し投げが得意で、切れ味がよかったですね。動きが良かったので、よけいに出し投げが決まったように思います。常に低い姿勢で相撲をとっていました。それが鋭い出足にもなり、出し投げにもなったわけです。それと、器用な人で、内無双なんて技も良くやっていました。たしか無双のスペシャリストの二子岳を内無双で破った事がありました。この時解説で「泥棒の家に泥棒がはいったようだ」と言ったのは言い得て妙でしたけど、さて、誰の言葉だったんでしょうねぇ。はっきりしないのですが、佐田の山の出羽海親方だったような気がします。

「もしも」という事はよくいわれますが、この人にもその「もしも」があります。それは肝炎です。さあ大関、という場所でこの病気に取り付かれて、それっきりになってしまいました。それさえなければ、技能派の名大関が出現していたはずなのです。もしそうなっていれば、春日野部屋久々の大関という事なので、一門は沸きかえったはずです。残念な事に病気のためにそれはなりませんでした。しかし憶えた技は威力を失いませんでした。それが幕内優勝となって実現しました。すでに退潮期に入っていたのですが、混戦となった場所を見事に制したのです。ま、成績が11勝4敗と幕内ではさびしい記録だったのですが、それは言わない事にしましょう。栃東が11勝をあげなかったら10勝5敗の多人数の優勝決定戦になったかもしれなかったからです。10勝の優勝決定戦よりは、11勝でスンナリ決まった方がはるかにいいですよね。

幕内上位で長く活躍した人ですが、その活躍ぶりを如実に物語っているのが、殊勲賞技能賞の同時受賞が4回もある、という事実です。これは栃東がどんなに強かったかを示していますね。と同時に、十分大関の力があった事をも示しています。

引退後は玉ノ井親方となり、春日野部屋のために尽力しました。審判委員などもつとめた事があります。師匠の栃錦(春日野親方)の死去に際し、独立して玉ノ井部屋をおこしました。これは部屋への尽力に応える意味もあった様に聞いています。名人であった栃東の弟子から、また出し投げの名人が出るのではないか、そんな期待を抱かせますね。


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