栃光正之(とちひかり まさゆき)

押し一筋に徹した、味わいのある人でした。最終的には大関になったのですが、昇進までは順調とは言えませんでした。この人で目立つのは、本当は相撲には向いていないのではないかと思わせるくらいの不器用さでした。ある面から言えばまじめに土俵を務めたといえます。しかしその打ち込み方があまりにも懸命なので、努力という言葉では表現できないような気になってしまう、そういう人でした。

恵まれた素質を生かした、というよりは努力で大関になった、そんな感じがします。そして熱心に稽古をしようという力士にとって、当時の春日野部屋は実に恵まれた環境でした。まず、師匠があの名人の栃木山でした。兄弟子には栃錦がいました。そのほかにも鳴戸海とか栃ノ海とかいました。それに同部屋同様だった出羽海部屋にも佐田の山などいました。師匠といい、稽古相手といい、本当に恵まれていました。本人も体力のあった人で、うまずたゆまず稽古を続けました。意外と知られていないのですが、この人は十両での全勝優勝をしています。めったにない全勝優勝をした事で、一躍有望力士として注目を浴びる事になりました。

栃光の相撲で真先に上げるべきは、土俵態度でしょうね。とにかく折り目正しい人で、「相撲は礼に始まって礼に終る」という言葉を本当に実行していました。いかにもこの人らしいエピソードとしては、現役中一度も「待った」をしていないことですね。これは師匠にそう教わったから実行していたというのですが、周囲はこれをもどかしがっていました。なにしろ、立ち遅れても何しても絶対待ったをしないのですから、最初から不利な事もあるわけです。それをわかっていながら、ついに待ったをしませんでした。栃錦なんかも「相撲には待ったという手もあるんだから、相手があまりにも早すぎたりした時は待ったしてもいいんだよ」というような事をいつも言っていたようなのですが、栃光はついに一度も待ったしませんでした。この辺は頑固というか、潔いというか・・・。

栃光が入幕してから期待はされていたのですが、なかなか実力発揮とは行きませんでした。よく「大関候補」のまま終ってしまう実力者がいるものですが、その一人になるのかと思われた時期もありました。ところが幸運というべきか、同部屋の栃ノ海や出羽海部屋の佐田の山が上昇して来ました。この二人と稽古をしているうちに実力をつけて行った栃光はついに栃ノ海と同時に大関に昇進しました。この昇進は地道な努力が実ったという事で、大変な好感を持って迎えられたように記憶しています。

さて十分に実力を貯えてから昇進したわけですから、大関としての栃光は見事な土俵ぶりを見せてくれました。優勝こそありませんでしたが、折り目正しい土俵態度が今度は風格を持つようになり、素晴らしい大関として活躍しました。春日野部屋としても名人肌の技能派の栃ノ海、努力の押しの栃光、と対照的な二人の大関がいた訳ですから、お互いに相手の存在を引き立てあうという素晴らしい状況になったわけです。

強い大関として活躍した栃光は、実力が衰えてくるとすぐに引退しました。出羽海部屋(そして春日野部屋も)の伝統である、あまり見苦しくなく引退する、というやり方に習ったわけです。

引退後は、部屋の親方となりました。ところが病気のためにまだまだ活動できる年齢で亡くなってしまったのは残念でした。

ところでこの辺が人柄なのでしょうが、出身地の人々は栃光の事を長く残すために、歌をつくり、本を出版し、あとあとまで郷土の誇りとしています。忘れ難い印象のある人ですね。


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