栃錦清隆(とちにしき きよたか)

現役時代は名人横綱といわれ、引退後は相撲協会の理事長を勤め両国国技館を建てた人です。現役中も、引退後も相撲界に功績のあった人です。では入門時からそんな感じの人であったかというと、これが全然違うというのが面白いですね。

東京の小岩の出身で、子供の頃から土地の相撲では強かったので結構やれるだろうと思って相撲界に入ったら、部屋の中で一番小さかったのでがっかりした、というエピソードがあるくらいでした。横綱になったとき師匠の春日野親方(元横綱栃木山)が「十両に上がってもすぐ落ちるだろうと思っていたら何とかもって入幕しちゃった。入幕してもすぐ落ちるだろうと思ったら何とかもって三役になってしまった。今度はだめだろうと思ったら大関になってしまった。大関が勤まるはずはないと思っていたら横綱になってしまった。こうなると判っていたら、四股の踏み方をもっとちゃんと教えておくんだった」というようなことをいっていたそうですが、横綱にまでなるとは思っていない人が多かったようです。

その原因は相撲ぶりにあるようです。戦後すぐに三賞が制定されたとき、栃錦は技能賞の常連でした。技能賞を獲得する力士というのは小兵で、技の切れる人が多いのですが、栃錦も技能派力士でした。あえていえば、むしろ半端相撲に近かったでしょう。これはある意味ではやむを得ないことで、平幕当時の栃錦は体重も少なく、技でかわしていかなければ勝てなかったのです。それに加えてなかなか勝負をあきらめず、しぶとかったことから「まむし」というあだ名をつけられています。ご本人はこのあだ名が好きだったのか、引退後も小兵力士をはげます意味でよく使っていました。でも、ねらった獲物は絶対逃がさない、という相撲振りがよく出ていて、うまくつけたものだなと思います。

でも、栃錦には他の相撲取りと違っているところがありました。最大の点は、親方の食事の相手を好んでした、ということです。春日野親方(栃木山)の夕食は酒を飲みながら長時間にわたるので、弟子の誰もが嫌がっていたのですが栃錦は進んで給仕をしていたということです。その理由は親方の話にあるようでした。栃木山という人は名人といわれただけあって話が豊富でした。その中に相撲の極意に通じる話が多かったので、栃錦は一生懸命それを吸収しようとしていたのです。こんな点は並の新弟子とは違いますね。

ちなみに栃木山という人は自分のベスト体重というのをしっかりと把握していた人で、それを超過すると稽古して体重を落とし、下回ると稽古を控えて体重をあげたということです。体重が多ければいいと闇雲に考える人ではなかったのですね。ですから或時栃錦が「体重が増えました」と喜んで報告すると「おまえ、それは汗が溜まっているのだよ」と言ったということです。ベスト体重の把握ということはなかなか難しいのに、それを実践していたのはやはり名人だと思います。こんな親方だったので、栃錦も長時間の給仕を喜んでしていたのでしょう。

栃錦に戻って・・・

技能賞の常連だった頃の栃錦は、技の豊富さで目立っていました。今でもよく思いだされるのが「たすき反り」ですね。これは栃錦以後は誰も本場所の土俵上で決めていないのです。

技といえば、こんな話があります。栃錦は、内掛けもよく使っていたのですが、あるとき琴ヶ濱と初めて顔が合ったとき見事に内掛けを決められてしまいました。「内掛けというのは掛ける技で、掛けられる技ではないと思っていた」と後でいっていました。技能派の栃錦も内掛けの名人にはかなわなかった、というところですね。栃錦の偉いのは、琴ヶ濱の内掛けを食ったのは最初の一番だけで、後は一度も内掛けでは負けていないということです。自分が得意にしていた同じ技で二度負けるのは名人のプライドが許さない、というわけでしょうね。

小坂秀二さんだったかと思いますが、「栃錦は自分の体勢が悪く、もう負けるというときになってから、土俵に落ちるまでに技を三つ出している」と述べています。なにせ「近代相撲の開祖」なんてことをいう人もいたくらいで、技という点では目立っていました。

栃錦の相撲が変わってきたのは、体重の増加があらわれてからです。それと共に番付も上昇し、大関・横綱へと昇進しています。この頃になると、半端相撲を取っていた頃の面影はなく、正面からの押し、寄りを中心とした相撲になります。それに加えて上手投げや出し投げ、二枚蹴りといった技で勝ち進むようになります。この頃になると本格的な、正統的な相撲を取るようになり、「名人横綱」と言われるようになります。欠点としては、腹が邪魔になったのか知りませんが、立ち合いに手をつかなくなったことですね。同時期に横綱を張った若乃花がきちんと両手をついて立つのと比べて、「名人らしからぬ」という声もありました。

横綱昇進後、不調になって引退かと取り沙汰されたこともありましたが見事に復調し、全盛時代はむしろその後になっています。この辺の粘り強さはさすがですね。

栃錦はちょうどテレビ放送が始まり、相撲がブームとなった頃の中心だった横綱で、若乃花との多くの名勝負を残しています。対若乃花戦はいつも熱戦で、この取り組みが相撲の中心となった感があります。「栃若時代」の開幕ですね。ほぼ似た体格の二人の相撲は、なかなか決着がつかず、ファンを沸かせたものでした。でも、若乃花ファンにとっては栃錦は悪役なんですよね。何しろ、大関昇進、優勝、横綱昇進とすべてのステップを栃錦に負けたために逃しているのです。この為に若乃花の昇進は大分遅れてしまった・・・

栃錦で面白いのは普段の様子と土俵上の様子とがまったく違っていたことです。引退後テレビに出ている時の表情やしゃべり方を見ていると、おっとりした感じでしたが、現役時代はその落差がもっと激しかったようです。ある時栃錦がファンだという女性と合ったとき、その人が「これは栃錦ではない」といったそうです。その理由が、「土俵上の栃錦は目付きがもっと鋭くて、恐いくらいなのに、今目の前にいる人は目つきがやさしすぎるからきっと別人に違いない」というものでした。ちゃんと髷を結っているのにですよ。自分でもおかしかったらしくて、引退後もよくこの話しをしていました。

栃錦の一番の名勝負といわれているものに、大内山との相撲があります。この取組のラジオ実況中継は、NHKのアナウンサーの教材としても長く使われたとのことで、スポーツ中継のお手本ともいえる名放送だったわけです。で、どんな一番だったかというと、突っ張り合いから組んで、栃錦の二枚蹴りあり外無双あり、ともつれた相撲になりました。最後は大内山十分になったと思った瞬間、栃錦の捨て身の首投げが見事に決まった、というものです。「あーのー大きな大内山の体が横倒しになりました」というようなアナウンスで終わっていたように思います。聴いていても体が自然に動くようで、なるほど名放送だと思いました。

ちなみに、私が聴いたのは20年くらい前に、『グラフNHK大相撲特集号』の創刊当時についていた付録の相撲中継のソノシート(懐かしいですね!)に収録されていたものです。この頃のNHKの相撲アナウンサーは中継技術もさることながら、相撲をよく知っていましたね。それに比べて最近のアナウンサーは時間前に立つと「あんなのありですか」と驚いていたり、首投げばかりにこだわったり、物言いを連発したり、北勝海を北の湖と呼び掛けたり(そういえば「美空さん」で辞めた人もこの局でしたっけ)で、若瀬川さんが解説をやめたのも無理はないと思いますね。ある時なんか、温厚なこの人がアナウンサーもあまりのひどさに腹をたてていたのがはっきりと判りましたね。それから程なく解説を辞めたのはやってられなくなったからだと推測して居ります。

・・・とこのへんで昔話や愚痴は止めましょう。

栃錦の引退は突然でした。若乃花と千秋楽に全勝優勝をかけた一番を取った翌場所だったからです。いろいろ理由があげられていますが、本人によると「横綱土俵入りの際に、踏み出す足を間違えたからだ」そうです。どういうことかというと、二字口で蹲踞して柏手を打った後に立ち上がって土俵中央へ行きますね。その時に踏み出す足は正面よりの足、と決っています。これは土俵中央で正面を向く時に足がもつれないように、という理由です。ですから東から上がった時は右足、西から上がった時は左足、となります。栃錦はこの踏み出す足を間違えた為に正面で向き直る時に足がもつれました。「誰も気がつかなかったかもしれないけれど、このときもう潮時だ、と思った」と当人は言っています。ま、これまで何万回となくやって来たことをし損なったのですから、「焼きが回った」と感じたのでしょうね。そう思ったら決断は早かったわけで、直に引退して春日野を襲名しました。この時、先代の師匠はすでに世を去っていて、現役力士で且つ親方といういわゆる二枚鑑札になっていたので部屋の継承はスムーズでした。

親方としては、栃ノ海、栃光、栃東といった力士を育てています。それから協会の幹部として、審判部長を初めとした要職を歴任しています。

そういえば審判部長として正面土俵下に座っている時のことです。負けて自分のところに飛び込んで来た春日野部屋の力士が立ち上がって土俵に上がろうとした時に、持っていたボールペンで思いっきりお尻を突き差したのは愉快でした。なにせ、その日はなぜか春日野部屋の力士に負ける人が多かったのでいらいらしていたところへもってきて自分のところへ飛び込んで来た者がいたので、ついに堪忍袋の緒が切れたといったところでしょうね。支度部屋に帰ったその力士が「親方に怒られた」と言っていたのも愉快でした。この力士、栃勇といいます。テレビで見ていておかしかったのを思い出します。

理事長としての活躍は、いうまでもないですね。


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