栃ノ海晃嘉(とちのうみ てるよし)

技能派の横綱でしたね。・・・っというと一言で済んでしまうのですが、ちょっとそれでは言い尽くせないところがあります。技のキレと言う点では、空前絶後かも知れない人です。大関までの輝きと言うものは素晴らしかったですね。横綱になって、怪我をしてしまったのが致命的でした。そのためにまだ20代なのに引退する事になってしまったのです。あの名人が、8勝7敗を連続していた姿は本当に気の毒でした。もし横綱にならなければきっと名大関として今よりももっと印象が強かった筈です。なまじ昇進させるのも考えものかもしれませんね。

この人の入門の時のエピソードは、おもしろいですね。確か中学の同級生だった人が相撲取りになって髷をつけて帰郷したのを見て、自分も入りたくなり反対を押し切って入門したと言う事です。「津軽のジョッパリ」というのがあって「強情」と言う意味なのだそうですが、この人にはそれがぴったりですね。まだ幕に入って間もない時手を怪我してしまったのに休場せずに片手だけで場所をとり終えてしまった事がありました。かなり気の強い人なのですね。もっとも小兵の人は皆気が強いのです。そうでなければ幕内なんか絶対につとまりませんからね。それにひきかえ大きい人は皆気が弱いところがあります。大の国にしても小錦にしてもそうですね。そのために持っているものを十分に発揮できないところがあります。おもしろいですね。

栃ノ海の相撲はやはり実際に見ないとその素晴らしさが伝わりにくいところがあります。とにかく技が切れ、スピードに溢れています。あまり早くて、なんで勝ったのか判らない事もあります。この技とスピードは下のころから変わらなかったようです。幕下の頃は大鵬に強く、一度も負けていないかもしれません(幕内ではさすがにこんな事はありませんけれども・・・)。印象に残っているのは、両前回しを取って一気に前へ出る取り口です。「拝んで出る」と言う形で、両前回しを取って上へ持ち上げて寄り立てる相撲なのです。最近はあまり見られないのですが、以前は小兵力士がよく見せていたものでした。この形が実に冴えざえとしていました。こういうのを「芸術品」というのでしょうね。

当時の春日野部屋にはもうひとり栃光と言う力士がいました。この力士は不器用の代表のような力士でした。この二人が同時に大関になったのですから、おもしろいですね。あ、佐田の山を忘れていた。この三人は同じ土俵で稽古をして強くなった兄弟弟子です(当時の出羽海部屋と春日野部屋は、力士にとっては部屋の名前が違うだけでいつも一緒に稽古する、同じ部屋の力士と考えていました)。でもそれぞれタイプが全然違う。

春日野部屋が優勝力士をよく出したり、横綱大関を抱えていたのはこの時期が最後です。そんな事から言うと部屋の勢いがもり上がっていた時期と言う事が言えます。こういう時期にはいろいろな力士が続々と入幕して来て、はなやかな印象を与えます。この時期の出羽海・春日野部屋がそうでした。最近は土俵上では主役の座を占めていない事が多く、さびしい感じを与えます。

栃ノ海で素晴らしかったのは横綱土俵入りでした。きびきびとしていて、ほれぼれとしました。これで土俵上でもっと活躍してくれれば言う事はなかったのにと、残念ですね。

引退後は中立となり、審判委員をつとめたりしていました。その後巡業部長となり、春日野を継承して現在にいたっています。この人の巡業部も長いですね。稽古には厳しい人なので適任と言う事なのでしょうね。ところでこの巡業部長と言う職は、二子山や出羽海も経験していて、一時は「理事長へのステップ」何て言われた事もあります。さて栃ノ海はどうでしょうね。

部屋を継承して間もないので、この人が育てた力士と言うのはあまり上位へは来ていないですね。それにしても、栃乃和歌が現在の春日野部屋の部屋頭と言うのは、皮肉と言うかなんと言うか・・・。春日野部屋は代々技能力士の出る部屋のなのに、栃乃和歌はどう見ても技能力士ではないですよね。もっとも名人照國の育てた大関が怪力清國だったと言う例もあるんですけどね。

土俵生活は中途半端に終わってしまった面がありますが、親方としては活躍して欲しいと思います。


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