鶴ヶ嶺昭男(つるがみね あきお)

現役時代は双差し名人として、親方としては多くの力士を出した事で有名でしたね。あの信夫山との対戦は名人同士の取り組みとして、当時注目を浴びたものでした。そして現在でもよくその事について聞かれますね。やはり名人同士の一番というのはいつまでたっても話題になるものなんですね。

鶴ヶ嶺は信夫山の相撲を「あの人は体が柔らかかったから、立合二本差すような事ができたが、自分は体が固かったのでああいう相撲は取れなかった」と評しています。違いを明確にしているのと同時に、自分の相撲は自分なりのものだ、という自信が言外にあるようにも思います。

鶴ヶ嶺の入門は比較的遅い方でした。戦争にも行っていますが、入門は復員後でした。そんなことからちょっと体が固かったのかもしれませんね。

鶴ヶ嶺の相撲はこうでした。根が右四つなので、まず左を差す。それから回りながら右を巻きかえて双差しになる。両肱を張ってがぶりながら寄り立てる。これが手順でした。ポイントは左から差す事で、右から差してしまうとそれで十分なので巻きかえがうまく行かないのだそうです。それと右はいつでも差せるので、左を優先した、ということです。

本人によると、二本差して肱を使う相撲なのに肱を痛めた事は一度もないのだそうです。両腕の力が強かったからなのだと思いますが、この両腕の強さがまた巻きかえてからの双差しという取り口の原点なのだといえそうです。こうしてみると、体質にあった取り口を発見し、磨いて行く事が大切なのだなという気がしてきますね。

鶴ヶ嶺で強調すべきはその持久力ですね。常に幕内上位で、時には優勝決定戦に出場する活躍もあったりする中で、14年間も取り続けたのですから、たいしたものですね。これはもちろん怪我のない、強い体質であった事もありますが、名人芸といえる型を持っていた事も預かっていると思います。とにかくそんなに大柄でもない力士が、38歳まで幕内上位で取り続けたのですから、この事だけでも賞賛に値すると思います。

鶴ヶ嶺の土俵人生の後半は、双差しの名人芸への賛辞抜きでは語れません。10回受賞した技能賞も、双差しへの評価としていいと思います。観客も鶴ヶ嶺の相撲の見せ場はチャンと心得ていて、左を差すとさぁ巻きかえだ、と待ち受け、みごと双差しに成功すると拍手がおこったものでした。こういう名人芸というのは最近あまり見られなくなったようですが、勝敗を別にして見せ場となっていたように思います。この辺が、最近もの足りないように思うのですが・・・

引退後は君ヶ濱親方となりました。ところが部屋の継承騒動がおき、井筒部屋を出て君ヶ濱部屋を創立しました。後に、当時井筒を名乗っていた北の富士と名跡を交換してやっと井筒を名乗りました。

弟子の養成に手腕を見せ、君ヶ濱時代の錦洋(後に大峩、川崎)や井筒になってからの霧島、それに逆鉾・寺尾兄弟を育てました。また長男の鶴嶺山と合わせて、三兄弟同時関取という快挙も成し遂げました。協会の役員としても理事待遇となるなど活躍し、平成6(1994)年4月に無事定年を迎えました。部屋の後継者は次男の逆鉾がなり、今回は継承に当たってはなんの騒ぎもおきませんでした。この人の話を放送で聞きたいとおもっている人も多い事だと思います。楽しみですね。


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