若乃花幹士(わかのはな かんじ)

人気がありましたねぇ。戦後の相撲人気は若乃花の登場によって本格的になった、と言ってもいいくらいでしょうね。それにドラマチックなんですよね。相撲に入門する前も、力士になった後も、そして現役を引退して親方になっても・・・。

津軽のリンゴが台風で全滅した時に、この人がインタビューされていました。この人のうまれた家は津軽の地主で、リンゴ園を経営していました。それが台風で全滅した為に破産ということになり、やむなく室蘭へ転居し、そこで大ノ海と出会ったのが相撲界に入るきっかけでした。この大ノ海が後の花篭親方となるわけです。

入門当時の若乃花は一家の中心として生活を支えていました。ですから「3年間」という期限付きの入門でした。つまり3年経って関取になっていなかったら相撲をやめる、という条件でした。これは一家の働き手がいなくなるのですから、当然といえば当然ですね。父親は健在でしたが、戦争で負傷して余り無理が利かなくなっていました。入門の時の理由が「2年間兵隊に行くのと同じだ」というのは時代ですね。徴兵制が当然だった時代に生きた人らしい考えですね。

ではなぜ一家の働き手だった若乃花がそれを投げ打って相撲界に入ったかというと、現金が目的だったのは当然ですが、それよりも地元で相撲が強かったことも理由としてあげられましょうね。ですから弟の中にはこのことを快く思っていない人もいました。この「思い込んだら必ず実行する」というのは若乃花のこれからにも出てくることですが、入門時に既に出ていることが面白いですね。

で、力士になったわけですが、当時の二所ノ関部屋は波乱含みでした。幕内力士のそれぞれが内弟子を抱えて独立の準備をしていました。有望な新弟子を見つけ、それを鍛えなければということで稽古も猛烈を極めていました。その中でも稽古好きだった若乃花は戦後に初土俵を踏んだ力士のなかでは出世が早い方でした。これは稽古相手に恵まれていたことがあります。ほとんど同時に相撲界に入った新弟子の中に宇草というのがいてこれと仲良くなり、いつも二人で稽古をしていました。後の琴ヶ濱ですね。

当時、二所ノ関部屋の幕内力士には、神風、力道山、佐賀ノ花、琴錦なんて人達がいて、玉錦以来の荒っぽい稽古をしていました。特に力道山は猛烈だったようです。若乃花のあだ名の中に「狼」というのがありますが、これは力道山の足に噛み付いたのでついたのだと言います。なぜ噛み付いたかというと「あんまり稽古でやっつけられたから」という理由らしいです。ご本人がそう言っていました。それにしても無茶苦茶なはなしですね。

若乃花の相撲は独特でした。とにかく常識を外れていました。
第一に、小兵力士なのに四つ相撲で取り口は大型力士のものだった、ということがあげられます。寄り、押し、といった技よりも投げが中心でした。上手投げが強烈だったのですが、それ以上に有名なのは呼び戻しですね。なにせ若乃花以後は見られなくなってしまったと言ってもいい技です。とにかく豪快でしたね。
第二に右四つでもとれたということがあります。本来は左四つなのですが、右四つの千代の山に自分から右を差しにいって、いつも大相撲を取っていました。これは珍しいのですよ。そうそう、呼び戻しは右四つからの芸でしたっけ。
第三に、自分の部屋で自分より下のものともっぱら稽古してあれだけ強くなった、という点です。普通は自分より強いものと稽古して強くなるのですが、若乃花はそうではなかったわけです。
第四には強靭な足腰です。うっちゃりはありませんでしたが(この点が貴ノ花と違う)、とにかくよく粘り、簡単に負けることはありませんでした。ポイントはどうも膝だったようで、膝のばねが強かったのでしょうね。

こんなことから「異能力士」ともいわれました。単純な強さからいったら、最強力士の一人かもしれないとまでいわれる若乃花ですが、横綱になるまでは苦労の連続でした。まさに「辛抱」でした。この当時の巡業は、部屋単位、一門単位でしたので、小部屋の花籠部屋で巡業すると土俵が保たないので、勢い稽古を見せることになります。しかも相手は総て弟弟子ですから、若乃花は自分より強い力士と稽古する機会があまりなかったのも事実ですね。そして稽古の仕上げはぶつかりです。胸を出すのは親方(大ノ海)しかいません。とにかく、食べる為に必死で稽古をした、という日々だったようで、これが親方と若乃花の共通体験としてその後も生き続けて行くわけです。ですから若乃花と花籠親方の二人は最後までよい関係を保ち続けました。若乃花の独立の時も何のトラブルもなく部屋を持ちました。この、師匠と弟子とが良い関係をずっと保って行くというのは実は相撲界でも難しい事なのです。特に横綱とその師匠となるとそんな話がよく聞こえてくるものです。表面には余り出ないのですが・・・

若乃花の性格が良く出ているのは、その結婚の時でしょうね。彼がよく遊びに行っていた人の家に、ある時から女の人が増えました(その人の姪だったと記憶しています)。若乃花は一目見て好感をもち、以前にもまして足繁くその家に通うようになりました。ところがある日、お目当ての人の姿が突然見えなくなってしまいました。これは親御さんが呼び戻したわけなのです。理由は「若乃花と言う力士は酒ばかりのんでいる暴れもので、成績もムラが激しくてとても将来性があるとは思えない」といわれて、「そんな乱暴な人間にみこまれたら大変だ」、と思ったせいだそうです。

それをきいた若乃花は、その足ですぐに駅へ行き(浴衣に下駄で)、茨城行きの列車を探しました。ところがその時間には最終列車が出てしまった後でした。貨物列車があったので、「俺は相撲取りで体が並みの人間とは違う。最寄りの駅でスピードを緩めてくれたら飛びおりる。万一けがをしても決して怨んだりはしない」と強引に頼み込んで乗り込みました。

列車の運転士が目指す駅で少しスピードを緩めてくれたので、飛びおりた若乃花はその足で女の人の家へ乗り込んだわけです。で、首尾はどうかと言うと、この女の人が現二子山夫人なのです。無鉄砲な話ですが、若乃花らしいと思います。

若乃花がしていたことで、その後あまり例のないことと言うと、オートバイに乗っていたこととジェット戦闘機に乗ったことでしょうね。オートバイは力道山の影響でしょう。ジェット戦闘機は、あるいは在日米軍の広報活動の一環だったかもしれませんね。でも飛行服をうれしそうに来た若乃花がけっこうさまになっていたのは意外でした。

事故で長男をなくしたことは有名なので、ここでは記さずにおきます。こんな悲しい話はありませんからね(ファンの気持ちというのは、変わらないものですね、と言い訳です)。

引退後、二子山を襲名して部屋をおこすのですが、この時に花籠親方と何のわだかまりもなく独立したのは前にも記しました。このとき連れて行った力士は、実は若乃花について行きたかった人達のほんの一部でした。ですからいよいよ独立するという当日には、ぜひ一緒に生きたいと頼み込む力士がたくさんいたそうです。その先頭にたっていたのがあの龍虎でした。若乃花は「おまえ等みたいな弱い相撲取りには用がないんだ」といってはね付けました。頼んだ方も断った方も、涙のとどまることを知らず、という光景だったそうです。

後年になって、二子山部屋の新年会の様子がテレビで放映された時に、この龍虎がさも嬉しそうにやって来たのには、こちらも嬉しくなってしまいました。龍虎というのは、一見そうは見えないのですけど、本当は相撲が好きでたまらない、まじめな人なんですよ。それを確認できたように思います。

で、話を戻して、部屋をおこしたものの、なかなか力士が育たず、苦労した時期もありましたが、二子岳が入幕してからは順調に力士が育って来ました。そういえばこの二子岳、師匠に似ていて変わった人でした。どう変わっていたのかというと、得意技が内無双だったのです。こんな力士はあまりいないと思います。

二子岳がよい兄弟子だったのか、これ以後多くの力士が育ち、最終的には横綱二人、大関二人を育てることになりました。その他幕内力士も多く、一時は相撲界を背負っていた感じがあります。

親方となって印象的なのはNHKの解説ですね。ぶっきらぼうなしゃべり方なのですが、おもしろい表現をよくしました。「ちゃんこの味がしみていない」という北出氏の大好きな表現は若乃花が放送中にいった言葉なのですね。この言葉は玉ノ海さんの「土の香りのする力士」という表現と共に、よく使われますね。ちなみに、前者は二子山親方が貴ノ花の相撲について言った言葉、後者は玉ノ海さんが旭國をたとえた言葉です。

親方としては相撲協会の要職を歴任し、春日野と名コンビ振りを発揮しました。春日野の後を受けて理事長となり、話題をまいたのは記憶に新しいところですね。


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