吉葉山潤之輔(よしばやま じゅんのすけ)

この人には愉快なエピソードがいくつかあります。その最たるものは入門の時の話です。北海道から東京へ一旗あげようと思って出てきたわけです。そのとき汽車の座席に隣あわせたのが見るからに立派な体格をしていて(吉葉山も同様でした)、高島部屋に入門するという話でした。しばらく一緒に座っていたのですが、そのうちに姿が見えなくなり、東京へは一人で着きました。駅に降りると待ち受けていた人がいて、あっという間に高島部屋につれていかれたのです。本人は最初は「人違いだ」と言おうと思ったのですが、何しろ立派な体格なので、待っていた人は入門予定者が途中で降りたとはまったく思っていないわけです。ここでおもしろいのは、吉葉山(まだ池田青年)が「それじゃあ入門するか」と気が変わってそのまま高島部屋に入門してしまったのです。おおざっぱというか何と言うか、のんきな話ですね。でも、ものにこだわらない、からっと明るい性格が吉葉山の身上でした。後年の大人気はこんな人柄によるのだと思います。

もう一つおかしな話があります。あるときの東京場所で、なかなか勝星の上がらなかった栃錦は「かっこ悪いな」と思って悪くも何ともない自分の足に包帯を巻いて、いかにも足の怪我で勝星が上がらないのだ、と見せかけようとしました。ところがその場所中にばったりと吉葉山にあったので、立ちばなしをしていると、吉葉山が足に包帯をまいているのに気がつき「怪我をしたのか」ときくと「いや、成績が悪いので包帯を巻いてごまかしているのだ」といったので「俺もだ」と栃錦も自分の足を指差し、二人で大笑いしたそうです。昔の相撲の雰囲気のよく出た話ですね。

さて、吉葉山は最初は北糖山と名乗って土俵に上がりました。これは上京前に勤めていた北海道精糖という会社(会社名が定かでない)からとったものです。それを改名したのは盲腸の手術をしてくれた吉葉という医師に感謝の意を込めて吉葉山としたのだそうです。なんか前田山と似ていますね。

吉葉山の相撲人生には戦争の影響が色濃くあらわれています。確か十両目前の時に徴兵にとられています。初土俵から十両昇進まで10年もかかっているのに、十両に上がるとすぐに入幕しているところにそれがあらわれているように思います。中国に長くいて、確か足に貫通銃創を受けているはずです。戦争が終わったときも「吉葉山は戦死した」とかいう噂が流れていて、ご本人がひょっこりと高島部屋の玄関にあらわれると、幽霊と間違えた人がいたということを読んだような記憶があります。

とにかくやっと帰還したのですから、ほとんど骨と皮になっていました。それからの吉葉山は「胃袋吉葉」とあだなされたくらいよく食べ、稽古にはげみ、それまでの遅れを取り返すかのように昇進していきました。吉葉山自身は軍隊経験をあまり悪い思い出とは思っていなかったようで、後援者の仲には旧陸軍関係者も多かったといわれています。

そういえば吉葉山の陸軍の経験が図らずも表面に出たことがありました。現在、ものいいがついたときには審判委員が土俵上で協議し、その経過を審判長がマイクで場内に説明することになっています。これを始めたときの審判部長が実は栃錦の春日野と吉葉山の宮城野だったのです。部長が二人いることのおかしさはともかく、なにせ最初のことなので何をしゃべっていいのか定かでなく、パターンを決めるまで大変だったようです。現在ではみんな慣れていますが、お手本のない二人は大汗をかいて説明していました。ところが春日野の説明は声が通らないのではなはだ聞きにくい。一方の宮城野はよくいい間違いをして「もとい」とやっていました。この「もとい」というのは陸軍の軍人がしゃべるときに言い間違いをしたときに訂正するときの言葉だったのです。「元北の富士の九重親方は、もとい、元北の富士の陣幕親方は・・・」と言う具合に使うのですが、やたらにこの「もとい」を連発するのです。本人は真剣なのですが、聞いているほうは何となく微笑ましくなったりしたものです。こんなところは人徳と言うものでしょうね。

さて話を戻して、吉葉山です。入幕後はその明るいムードと美男ぶりで人気力士となりました。もの凄い人気だったようです。ところが、大関・横綱にすんなりとはなれませんでした。もう一歩というところで昇進できなかったりして、ファンをやきもきさせそれが一層人気に拍車を掛けるという具合でした。ライバルとして同じ様に昇進してきた鏡里が地味な朴訥な感じだったので、その対照もよかったのでしょうね。

横綱昇進を決めるときがまた劇的でした。全勝優勝をした場所の千秋楽に雪が降りだし、その雪の中を提灯行列をしたファンと共に部屋へ帰ったのです。このときが吉葉山の絶頂でした。これからの活躍をおおいに期待されていたのですが、残念なことに新横綱の場所を全休してしまいました。前途多難を思わせるスタートでしたが、事実横綱としての優勝は一回もありませんでした。好調を思わせるときはあったのですが、結局は不振が続いたまま引退することになってしまいました。

現役時代は充分に活躍できなかった感じのある吉葉山ですが、親方としては忘れられない力士を育てています。明武谷と陸奥嵐の個性派力士二人です。明るい性格だった吉葉山の弟子らしいと思うのですが・・・。

そういえば宮城野部屋のあとがちゃんこ料理屋(ちゃんこ吉葉)になっています。酒好きだった吉葉山に何となくぴったりしているように思います。


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