豊山勝男(ゆたかやま かつお)

学生出身者で最初の大関ですね。何しろデビューが淒かったですね。幕下10枚目格で付け出されて、あっという間に幕内に昇進してしまいました。「幕下10枚目格」というのは「おや」と思う人も多いでしょうが、実はこの豊山ただ一人です(と記憶しています)。豊山の実力を正当に評価した番付でしたが、あまりにも学生出身の力士が有利だという事で、これ以後は幕下尻付け出しという事になりました。そういう点でも期待されていた事がわかりますね。

十両に昇進してから、全勝優勝をして幕内に昇進しました。十両の全勝優勝というのは最近はほとんどないのですが、以前はたまにありました。確か北の富士もそうだったと思います(あまり記憶が定かでない)。

幕内に昇進してからもすぐに三賞の常連となりました。それもただの常連ではなく、いつも二つの賞を受賞していました。受賞しているのが殊勲賞と敢闘賞というのはこの人の相撲をよくあらわしているようですね。長身で、いかにもスケールの大きな人だと思わせるのですが、あまり技能的な感じはせず、どちらかといえば不器用な感じでした。取り口もなんとなく冴えない(?)印象で、もっと強いのにな、と思う事もしばしばでした。大関に上がってからはすぐに横綱になると思われていたのに、そんな事もなく、大関で終ってしまいました。本当に「終ってしまった」という印象で、持てるものをあまり出さないまま引退してしまったような気がします。

全盛期の大鵬を一気に土俵下へ持って行くような相撲も時には見せました。それだけの力を持っていたのですが、そういう目のさめるような取り口もあまりなく、晩年のころには相手を引っ張り込んで小手に振るような相撲ばかり見せていました。腰を痛めたのが原因で消極的な取り口になったとも言われていますが、見ている方はじれったい思いをしたものでした。

豊山が前に出るよりは相手を呼び込んでしまって土俵際で振るような相撲を見せるようになったのは、稽古相手に問題があったという人もいます。豊山の稽古相手はあの柏戸でした。柏戸の猛烈な出足を受け止める力があったのですが、それがかえって土俵際で振るような相撲をとらせるようになり、本場所でもついそれが出てしまってあまり勝ち星が上がらなくなってしまった、というのです。「本当かな?」と思うのですが、豊山のあの相撲ぶりを思うとあながち間違っていないような気がします。

ところで豊山が上昇して来た頃は、序の口から取って来た相撲取りの間でかなりな反感がありました。「学生さんに負けられるか」という気持ちですね。特に強かったのは佐田の山でした。ですから豊山との相撲ではいつも異常に気合が入っていました。他の力士も同様で、こういったプレッシャーをはねのけてあっという間に大関になった豊山がどんなに強かったか、逆にわかるというものです。ただ闘志が表面に出ないのでその分おとなしく見えたのも事実でした。もっとも、女性ファンの人気はすごかったですけど。

アンチ大鵬からは、大鵬に対抗できる逸材と期待をかけられていたのですが、結局は対抗できず脇役で終ってしまいました。あれだけ強かったのに、一度も優勝していないのですよね。何か不思議な気もします。それと大関になってからちょっとそれ以前とは勢いが違ってしまったような気もします。

引退後は錦島親方となり、師匠の双葉山の死後にその遺言という事で時津風部屋を継ぎました。この時に双葉山の死の直後に時津風親方となっていた鏡里とトラブルがあり、結局鏡里は親方衆だけを連れて独立して立田川部屋をおこしました。この時のしこりは今も残っているようですね、残念ですけど・・・

時津風親方となってからは、大潮、双ツ龍、時葉山、蔵間といった幕内力士を出しています。名門の灯を絶やさずに、弟子の養成に手腕を見せています。その一方では協会の幹部としても活動していました。現在、協会のナンバー2として現役時代はあれほど反目しあっていた佐田の山の出羽海理事長と名コンビを組んでいるのは、現役時代を知るものにとっては何かおかしな感じもします。

一時相撲放送の解説もしていましたが、なかなか弁舌さわやかでききやすい解説でした。そうは見えないですけど、この人は本当はなかなか切れる人なのではないか、そんな気もしました。人気爆発した相撲界をどう運営して行くのか、注目したいですね。


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